水面にたゆたう波紋
042
和解したわけではないけれど、フリックは今自分がすべき事を見失っていなかった。
ティルをリーダーとは認められない、けれど共に戦ってほしいと言ったのは、彼の方だ。
最愛の人を喪いながらも冷静を取り戻したフリックに、ティルは複雑な感情を抱いていた。
もし、自分がコウを喪ったとして…彼のように、すべき事を見失わずにいられるだろうか。
大丈夫だと確信が持てない自分自身。
彼女に対する依存の深さを改めて感じ、浮かんだ小さな不安がいつまでも消えなかった。
「フリック」
城へと帰る道中、ティルは控えめにフリックを呼ぶ。
少しの間を置いて、何だ?と答える彼。
二人の間の溝は、まだ少し深い。
「僕をリーダーと認めてくれなくていい。だけど…コウとは、話をしてあげてほしい」
「フリック、アイツは必死だったぜ。オデッサを助けようと、魔力が尽きる手前まで魔法を使い続けた」
無我夢中で、死を受け入れているオデッサをこちらの世界に引き留めようとしていた。
どうすることも出来ないと自分の無力を嘆いていたのは、他でもない彼女自身だろう。
「コウは…来なかったんだな」
フリックがぽつりと呟いた。
その言葉に、ビクトールとティルが顔を見合わせる。
「コウは、あの後…倒れたんだ。酷い熱なんだが、一緒に行くって聞かなかった。
もちろん、ティルが許可しなかったから…城で留守番だ」
「熱…?大丈夫なのか?」
「本人にとっては“大丈夫”らしいが…」
肩を竦めるビクトール。
彼の言葉を引き継ぐように、ティルが口を開いた。
「彼女は昔の病弱な身体の所為で、そう言う事に慣れ過ぎてるんだ。あれは、大丈夫と言える熱じゃないよ」
外を出歩かせるなんてとんでもない。
本当ならば、見送りだって許可したくはなかったところだ。
ただ、コウの目があまりに切実だったから…こちらが折れただけ。
そう話すと、フリックは黙り込む。
その表情には彼女を案じる色がありありと浮かんでいた。
「彼女が寝込むのはこれが初めてだよ。いつもなら、寝込むほどの無茶はしない。誰よりも自分を理解してるからね」
「………」
「彼女をそこまで追い詰めたのは、フリック。君の言葉だ。…そこだけは、わかっていてほしい」
残酷な言葉だと思う。
けれど、これだけは伝えておきたかった。
フリックの言葉一つが、どれだけ彼女を傷付けたのか。
ごめんなさいと涙を流し、その細い肩を震わせた彼女の姿を思い出す。
きっと、コウはフリックを責めない。
それは、自分がオデッサを救えなかったと思っているからだ。
彼女を救えなかったのは、あの場にいた全員に言える事なのに…コウはその責任を一人で背負おうとしている。
だからこそ、フリックに言われる言葉を、彼女は否定できないのだ。
「…なぁ、ティル」
不意に、フリックがティルを呼ぶ。
「お前…コウのこと、よくわかってるんだな」
そう言ったフリックに、
ティルは何と答えれば良いのかわからなかった。
けれど、彼の反応など気にせず、フリックは続ける。
「コウが大事か?」
この言葉には、答えを求められていた。
前を向いていたフリックが、ティルの方を見てそう問いかけたから。
「…きっと、大事なんて言葉じゃ足りない」
マッシュにも言った。
彼女は自分にとって唯一無二の存在なのだと。
フリックはティルの答えを聞き、再び視線を前へと戻した。
「そうか―――ありがとう」
日が暮れるにつれ、不調が酷くなってきた。
熱が上がってきているのか、身体を起こす事もままならない。
ティルに伝わってしまわなければいいけれど、と無駄な事を願ってしまう。
きっと、彼には筒抜けだ。
その証拠に、コウの紋章に伝わる彼の感情の中には、焦りが含まれている。
「大丈夫なのよ、ティル」
この熱は命にかかわるものではない。
それだけははっきりとわかるのだ。
だから、彼がそんなに心配する必要はないのだが…その部分は、上手く伝わってくれない。
「少し休めば…きっと、彼らを迎えられるわね…」
囁くような呟きと共に、コウの意識は沈んだ。
ヒヤリ、と額に触れる冷気。
冷えたタオルの感触だと気付き、重い瞼を開く。
そこにいるのはティルだと思っていたけれど―――視界に入り込んだバンダナは、青だ。
「…フリ、ク…?」
熱で掠れた声だったが、すぐ近くにいた彼の耳には届いたらしい。
余所を向いていたその顔が、驚くような俊敏さでコウを見た。
視線が合い、どこかほっとした様子の彼。
自分を憎んでいる彼が、こんな風に心配してくれるはずがない。
それなら、これは夢なのだろうか。
「…コウ」
手袋をしていない手が、コウの頭を撫でた。
その感触が夢であるはずがなく、今目の前にいるのが本物のフリックなのだと、否応なしに理解する。
「…や…っ」
状況を理解するのと同時に、コウはその手を振り払った。
これ以上、彼に嫌われたくない―――だからこそ、彼の口から自分を責める言葉を聞くのが怖い。
逃げるように身を小さくするコウを見て、フリックは心を痛めた。
自分の言葉がどれほど彼女を追い詰めたのか…今の反応を見れば、嫌でもわかる。
「ごめんなさい…ごめんなさい…っ」
「コウ、違うんだ」
親に叱られた子供のように、ごめんなさいと繰り返す彼女。
ポロリと零れた涙は、次から次へと溢れ出す。
耳を塞ぎ、目を閉ざし―――彼女は、全身でフリックを拒んだ。
「ごめんなさいっ」
「コウ、頼むから、話を聞いてくれ!!」
声を荒らげ、耳を塞ぐ彼女の手を強引に掴む。
涙を弾けさせてフリックを見上げたコウの目に映る感情は、恐怖に他ならなかった。
「やっ―――ティルッ!!」
それは、心からの叫びだったのかもしれない。
悲鳴にも似た声を絞り出すのと同時に、優しい熱にふわりと包み込まれた。
手首を拘束していたフリックの手が外れ、入れ替わるように手を包み込んでくれる大きなそれ。
腕の力も触れる熱も―――何もかもがコウの知るもので、恐怖に縮んだ身体から力が抜けた。
逃げるように体を捩れば、隠すように背中や後頭部を覆う優しい腕。
「大丈夫だよ、落ち着いて」
耳元でそう囁かれ、コウはその胸に縋りつくようにして、涙を流したまま頷いた。
腕の中で涙を流すコウを抱きしめ、ティルはフリックを見る。
責めるような視線になるのも無理はない。
今はまだ無理だと止めるティルを押し切り、話がしたいと言ったのはフリックなのだ。
体調が悪いのに話が出来るはずがないと思っていた。
けれど、頼むから、と切望され―――ビクトールにも「話させてやってくれ」と言われては、仕方ない。
無理をさせない事を前提に、許可した。
その結果がこれだ。
フリックもこれほどとは思っていなかったのだろう。
傷付いた表情がそれを物語っていた。
彼との視線が絡むと、ティルは緩く首を振る。
フリックは小さく息を吐き出し、足音を潜めて部屋を出て行った。
パタン、と閉じた扉から視線を外し、コウを見下ろす。
紋章越しでなくともわかる、彼女の感情。
「大丈夫だよ、コウ」
まるで幼子のような彼女を、ただ抱きしめている事しかできなかった。
11.06.26