水面にたゆたう波紋

041

フリックと再会した翌日、コウは与えられた自室で床に臥せっていた。
このところ、解放軍のために忙しく働いていた疲れが、昨日の事で一気に身体を襲ったようだ。
久しぶりだが、慣れている高熱の感覚に、コウは動くこともせず天井を見上げる。
昔は、毎日こうして天井やベッドから見える窓の景色だけを見つめて過ごしていた。
自由に動けるようになった今も、実は夢を見ているのでは、と思う時がある。
泣き腫らした目元は熱く、用意してくれたタオルをそっと瞼に乗せて視界を遮った。
その時、近付いてくる足音に気付く。
部屋の前を素通りすることなくそこで止まり、次いでノックが聞こえた。

「コウ、調子はどう?」

返事を聞いて部屋に入ってきたのはティルだ。
コウはタオルを取って僅かに首を動かし、彼を迎え入れる。
どうやら、新しい水を持ってきてくれたらしく、その手には桶が握られていた。

「ええ、大丈夫。ごめんなさい、倒れてしまって…」
「気にしなくていい。君は少し頑張りすぎだから、身体が休息を求めたんだよ」

ティルが言わなくても、彼の思考を先読みして動いてくれる彼女の存在はありがたい。
烏合の衆である解放軍にとって、彼女は既に要となる重要な人間だ。
マッシュでさえ、彼女の機転と視野の広さには一目を置いている節がある。
巧みに人を使う手腕も、王族ならではの資質なのだろう。

「まだ熱が高いね」

ベッド脇の棚に桶を置いた彼が、そっとコウの額に触れた。
彼にとっては高熱だと感じるかもしれないが、病弱だったコウにとっては微熱程度だ。
心配されるほどではないわ、と告げると、彼は複雑そうな顔を見せる。

「じゃあ、食欲はある?食べられるなら、その言葉を信じるよ」
「…………」
「君は熱に慣れているかもしれないけどね。普通に考えれば高すぎる熱なんだから、大人しくしていてよ」

今すぐにコウの基準を一般まで下げるのは難しい。
けれど、無理をさせては駄目だと心を鬼にする。
コウはベッドからティルを見上げて、じっと沈黙した。

「ティル、明日の事なんだけど…」
「熱が下がらなければ連れて行かない」
「でも…!」
「駄目だよ。確かに君の身体は無理をしていたけど、寝込むほど酷くはなかった」

それに止めを刺したのは、フリックの言葉に他ならないのだ。
そんな状況を作り出す可能性のある彼と会わせるわけにはいかない。
ティルは頑なだった。

「ティル…!」
「…頼むから―――」

とても弱い声が聞こえて、コウが口を噤む。
見上げた彼の表情は悲しげで、彼女はかける言葉を失った。

「大人しくしていて。フリックの事は、僕に任せてくれ」

そう告げる彼は、よく見ると少し顔色が悪い。
そこで、彼女はハッと気付いた。
恐らく、紋章越しにコウの感情や不調が彼へと流れ込んでいるのだ。
欠片を受け取っているからこそ、彼は本気で彼女を案じている。
その心がとても不安定だと理解しているから。

「…ごめんなさい。私の所為ね…」
「いや、僕はありがたいと思っているよ。これのおかげで、君の言葉に惑わされて無理をさせずに済む」

大丈夫だと言う彼女の言葉が本当なのか。
それを判断する材料となりうる情報は、ティルにとっては有益だ。

「と言うより、この気分の悪さでよく大丈夫だって言えるね。ほんの一部しか伝わってないはずなのに、きついよ」

身体の機能を奪われるほどの不調ではない。
けれど、頭がぼんやりしていて、いつも霞がかかっているようだ。
そんな彼に、コウはきょとんとした表情を見せる。

「…本当に、大丈夫なのよ…?」

その表情からして、この言葉はきっと偽りではない。
やはり、病弱で臥せることに慣れている彼女は、一般とはかけ離れた感覚を持っているようだ。
恐らく、彼女の「大丈夫じゃない」は、一般的に言えば限りなく死に近い。
ティルは改めて、しっかり見張っていよう、と心に誓った。












昨日出た熱がそう簡単に下がるはずもなく。
峠は越えたものの、依然として発熱と言う状況にあったコウは、ティルの許可を得られなかった。
けれど、ベッドで一日を過ごさなければならないほどではない。
カクへと向かう彼らを送り出す程度は出来ると、玄関フロアまで降りてきた。

「そんな顔をしなくても大丈夫だよ。戦争をしに行くわけじゃない」

降りてきたコウの顔を見るなり、ティルは苦笑交じりにそう言った。
そして、近付いてきた彼女の頭をポンと撫でる。

「もう少し、自分を信じるといいよ」
「…自分、を?」
「君が信じて、認めた男だ。落ち着けばちゃんとわかってくれる」

そうだろ?と問いかけられ、コウは唖然とした。
ティルにとって、フリックがどういう人間なのかはまだしっかりと掴めていない。
わかるのは正義感の強さと、そしてオデッサへの愛情の深さだけ。
けれど、コウはそんな彼を信じ、慕っていた。
ティルが信じる彼女が信じていた―――彼にとっては、それで十分なのだ。

「ちゃんと連れて帰ってくるからな。お前も、話すことを考えとけよ」

ティルの手が去ったかと思えば、今度はビクトールの手がコウの頭を撫でる。
その豪快さを案じたティルが思わず声を上げた。

「もう少し丁寧に扱って!コウはビクトールと違って繊細なんだから」

慌ててビクトールから引きはがすと、コウは頭を揺らされて若干貧血気味だった。
昨日まで熱を出していて、今日も完全に下がっていないのだから無理もない。
おっと失礼、と笑うビクトールに反省の色はない。

「大丈夫。もう、行って?」
「あぁ、うん。…じゃあ、行ってくるよ」

そろそろ出なければ、日暮れまでに城に帰るのが難しくなる。
乱暴者のビクトールは自分と一緒に来るのだから、城に残る彼女は安全だ。
行ってらっしゃいませ、と言う声に見送られ、彼らはカクの町へ向かって出発した。

「コウ、身体はどうですか?」
「もう大丈夫です。この程度の熱は、昔なら日常茶飯事でした」
「…まぁ、軍医によると疲れが出ただけだと言う事ですから…しかし、無理は禁物です」

マッシュの言葉に、コウは苦笑を浮かべながらも頷く。
彼女とて、彼らの心配が分からないわけではないのだ。

「今日は紋章術の訓練に身が入っていないようです。体調が悪くないなら、少し顔を出してあげてください」
「…わかりました。皆さんに…心配をかけてしまっているのですね」

身が入らないのは、いつも訓練の指導をしている彼女がいないからだろう。
心配してくれる人がいると言う事は幸せなことだけれど、やはり心苦しい。
昔は常に感じていた気持ちだからこそ、少しだけ懐かしく感じた。






「あれ、来たの?」
「…ルック、これは一体…?」
「訓練に集中できないみたいでね。少し厳しくしただけでこの様だよ」
「厳しくって…少しじゃないでしょう、これは」
「普段ならもう少し行けるんだけどね。誰かさんが寝込んだりするから」
「それは…ごめんなさい」
「まったく…おかげで君の訓練だって進まないじゃないか。もう少し自分の体調に気を配るべきだね」
「ええ、本当に。ルックにも心配させてしまったのね」
「………君と話していると、毒気を抜かれるよ」

10.08.22