水面にたゆたう波紋
040
気がつけば、ティルの部屋に居た。
泣き止めとも落ち着けとも言わず、彼は黙ってコウを抱き締めていた。
―――何でだよ…何で、助けなかったんだ!?お前の魔法なら助けられたんじゃないのか!?
脳裏にフリックの言葉が過ぎる。
魔法は万能ではない。
死に逝く者をとめるだけの力を持っていない。
けれど、本当にそうなのだろうか。
無意識のうちにもう駄目だと決め付けて、力を抜いてしまっていたのではないか。
もしかすると、全ての力を使えばオデッサを助けられたのではないか。
不安が際限なく膨らんでいく。
「コウ?」
紋章越しにその感情を悟ったのか、ティルが彼女を呼ぶ。
悲しみの中に現れた不安が何を示すものなのか。
彼は腕の中の彼女の名を呼ぶ。
「私…助けられた、の…?」
「違うよ。コウのせいじゃない」
どうしようもなかったんだ、と告げる彼に、コウはゆっくりと顔を上げた。
見上げようとする彼女に合わせて少しだけ腕の力を緩める。
涙に濡れた目がティルを見つめた。
「私は魔法が使えるの。魔法はこの世界の紋章術よりも強い力を持っているわ。それなら…」
「死を止める事は出来ない。それは自然の摂理に反する事だよ」
「でも、全てを使えば助けられたかもしれない…!」
それは、悲鳴にも似た言葉だった。
もしかすると、と言う希望的な仮定によって、彼女の心は混乱を極めている。
ティルは彼女の両頬に手を沿え、視線を合わせた。
「たとえコウがその命を削ってまで彼女を助けたとしても…オデッサさんはそれを喜ばないんだよ」
反論の言葉を失ったコウ。
ぱちりと瞬きをした拍子に、その目元から涙が零れ落ちた。
「オデッサさんは誰よりもコウの幸せを願っていた。君が身代わりになる事を喜ぶはずがない」
「私の…幸せ…」
「君がオデッサさんを大切に思っていたように、オデッサさんも君を大切に思っていた」
ティルの言葉を聞いて、いつだったか彼女が「妹みたい」と笑ってくれた事を思い出す。
コウにも妹が居たから、彼女がそう言ってくれた事はとても嬉しかった。
コウが妹たちに向けていた愛情を、オデッサが自分に向けてくれているのだとわかったから。
「フリックだって、ちゃんとわかってる。ただ、感情の整理が出来ていないだけだよ」
フリックの名前を出すと、彼女は心を痛めたように顔を俯かせた。
そんな彼女を引き寄せ、再び腕の中に抱き締める。
「明後日…話をしよう。大丈夫、ちゃんと話をすれば…いずれ、分かり合えるよ」
彼女はティルの優しい言葉に言葉を返さなかった。
ただ、そっとその肩に額を預ける。
分かり合えるなら、分かり合いたい―――コウにとっての数少ない大切な人だから。
軍議に使用している部屋には、既にお馴染みの顔ぶれが集まっていた。
ティルが姿を見せると、ビクトールが物言いたげに彼を見るが、結局何も言わなかった。
がたん、と椅子を引いていつもの場所へと腰を下ろすティル。
「ティル様。コウはどうしましたか?」
「部屋で眠ってるよ。戻ってあげたいから、手短に終わらせたい」
ティルの言葉にマッシュは、わかりました、と頷く。
「大体の事情はビクトールから聞きました。話のわからない相手ではありませんし、大丈夫でしょう」
「そうだね。僕に対しての嫌悪感が問題だけど…とりあえず、きちんと話してみるよ」
「オデッサが信じた相手です。それで解決するでしょう」
そう頷くと、マッシュは話を切り替えるように机の上に地図を広げた。
いくつもの書き込みが見えるそれは、決起してからずっと使ってきているものだ。
手短に、と言うティルの要望通り、マッシュは滞ることなく軍議を進めていく。
そして、1時間も満たない軍議が終わった。
一人ずつ部屋を出て行く中で、マッシュがティルを引き止める。
「ティル様、少しだけ残っていただいてもよろしいですか?」
「え?あぁ…うん。わかった」
一度扉に視線を向けてから、彼はそう頷いた。
やがて部屋の中から二人以外の人が立ち去る。
「一つだけ…確認したい事があります」
「いいよ、何?」
「あなたはコウをどう思っていますか?」
ティルの空気が一瞬だけ止まった。
彼は座ったままマッシュを見つめ、やがて短く息を吐く。
「唯一無二だよ。僕にとっても…この紋章にとっても」
皮手袋越しにソウルイーターに触れる。
まるで、呼応するようにどくん、と揺れた。
「解放軍の中に彼女の魔法を知らぬ者はいません。
それに頼る心を咎める事は出来ない―――どういう意味か、おわかりですね?」
「…彼女を城の奥深くに隠しておけない…そう言いたいんだろ?」
息を吐き、求められている答えを口にすれば、その通りです、と頷く彼。
「当然、他の兵と変わらぬ危険性が伴います」
「………彼女は覚悟してるよ」
「私はティル様を案じているのです。この戦争は無血では終わらない。その犠牲の中に―――」
その犠牲の中に、彼女が含まれてしまったら?
皆まで紡がれなかった言葉を理解し、ティルは皮手袋を見下ろした。
紋章が不快感を露にしているのを感じる。
他人の声を聞く意思があるのか、それともティルの心中を表しているのか。
「コウは―――死なないよ。彼女は死なせない」
ティルは、その言葉が自分のものでありながら、まるで別の意思によって喋っているように感じた。
どくん、と満足げに脈打つソウルイーター。
お前の言葉なのか―――ティルはソウルイーターを見下ろした。
「大丈夫。僕はリーダーだからね。やるべき事は見失わないと…誓うよ」
「…まぁ、良いでしょう。私が言いたい事はわかっていただけたようですから」
どうぞお戻りください、とマッシュが扉を開いた。
ティルはそれをくぐり、自室への道を歩いていく。
誰も居ないひっそりとした廊下。
ティルはそっと手袋を脱いだ。
夕暮れの中、はっきりと存在感を見せている紋章、ソウルイーター。
一番初めに彼女をこの世界へと運び、その命を繋いだ。
けれど、傍を離れられないよう、命と言う名の鎖を彼女に絡めた。
傍を離れた途端に始まる、命のカウントダウン。
戻れ、離れる事は許さない―――ソウルイーターの声なき声が、彼女を引き寄せる。
「お前は…彼女を手放す気なんて全くないんだな」
呟く声に答える者は居ない。
彼の手の甲で、紋章が小さく脈打った。
10.04.25