水面にたゆたう波紋

037

「なんて、酷いことを…」

目の前に広がる光景に絶句するコウ。
彼女の様子を見て、ティルが心を痛めた。

「これが…今の帝国なんだ…」

その言葉は、彼自身に言い聞かせる為のものでもあった。
いつかは父と同じように帝国のために―――信じていた想いは、あっさりと裏切られてしまった。
何がこの国を変えてしまったのだろうか。






パチパチと炎が爆ぜる音が聞こえる。
炎はエルフの大樹のみならず、森全体を飲み込もうとしていた。
見たこともないような光景に、コウはきゅっと唇を結ぶ。
そして、隣で拳を握り締めているティルを見た。

「皆を下がらせて」
「コウはどうするつもり?まさか、この炎の中に飛び込むつもりじゃないよね?」
「そんなに無謀じゃないわ。早く」

少しだけ声を強くすれば、彼はわかった、と頷く。
そして、グレミオに事情を話し、他のメンバーを後方へと下がらせた。
それを拒んだのは、すぐにでも森に飛び込みそうな勢いのキルキスだ。

「待ってください、ティル様!あの中に…あの中に、シルビナが…!」
「あなたが傍にいればいつまで経っても魔法が使えない。早く下がりなさい!!」

やっとのことで押さえているグレミオの腕から飛び出していきそうなキルキス。
そんな彼に痺れを切らし、コウが声を荒らげた。
思わず力を抜いたその隙を見逃さず、グレミオが彼の腕を引いて無理やりに後方へと連れて行く。
最後までコウの近くに居たティルに目配せをすると、彼は小さく頷き、グレミオ達の元へと歩いた。

「水の紋章よ、力を―――リヴァイアサン」

紋章術により更に高まった魔力が、異世界との門を繋ぐ。
召喚魔法が使えるかどうかは、一種の賭けだった。

しかし、何故か―――ここなら出来る、そう思ったのだ。
コウの呼びかけに応える様に姿を見せた水神。
己を召喚した者を見下ろすその様は、不思議な迫力に満ちている。
リヴァイアサンに並ぶように移動したコウが、その長い身体に手を添えた。
それだけで全てを悟ったように、リヴァイアサンが高く咆哮する。
どこからともなく生み出された波が森全体を飲み込んだ。









燻っていた炎が消え、水流が跡形もなく消える。

『異界の王女』

不意に、頭に直接声が響いた。
顔を上げたコウの視界に、自分を見下ろすリヴァイアサンの眼が映る。

『皆もそなたを案じていました』
「…心配をかけてごめんなさい」
『構いませんよ。そなたの元気な姿を見ることができた―――それで十分です。
何かあれば、いつでも我々を呼びなさい。我々は、いつでもそなたを見守りましょう』
「…ありがとう。皆にも、そう伝えて」

コウの言葉を聞いたリヴァイアサンが静かに微笑んだ―――そんな気がした。
召喚獣が姿を消し、独特の澄んだ空気が消える。
後には、木の焦げた臭いだけがそこに残っていた。
その臭いが鼻に届いたのか、金縛りにあっていたように動かなかったキルキスがハッと我に返る。

「シルビナ!…皆…っ!」

悲痛な声を上げてエルフの村へと駆けていく彼。
コウは哀しげな表情で彼の背中を見送った。

「コウ」

声をかけられ、振り向く。

「大丈夫?その…かなり、強い魔法を使ったんだと思うけど…」

蒼き門の紋章と言う、召喚系の紋章がある事は知っている。
けれど、彼女のそれは、紋章術とは違うもののようだ。
この広大な森を覆いつくすほどの水を生み出す召喚獣。
呼び出した本人の魔力の減少は、それに比例しているはずだ。
コウはティルの心配を理解し、にこりと微笑む。

「私なら大丈夫。紋章の力を借りて召喚を行ったから…。少し疲れた程度よ」

そう答える彼女の顔色は少しだけ悪いように見えた。

「行ってあげて。あなたはリーダーなんだから。私の仕事は、ここまで」

安心させるように微笑んだ彼女は、トン、と彼の背中を押した。
後ろ髪を引かれたティルは、それでも彼女の言うようにリーダーとしての役目を果たそうと動く。
キルキスのところに集まる彼らをその後方から見守りつつ、コウは先ほどの会話を思い出した。

「召喚獣の世界との繋がりは途絶えていないのね…」

彼らに言付ければ、あちらの世界に自分の無事を知らせることが出来るだろうか。
ふとそう考えたところで、それが無理であることを思い出した。
何故なら、召喚獣と言葉を交わすことが出来るのは、コウだけだからだ。
今ならばその理由がわかる。

「私の中に流れる、エルフの魔力」

自然の声を聞くことの出来るエルフの魔力。
それと、持って生まれたコウの魔力が上手く絡み合い、召喚獣との会話を可能にしている。
コウにはその確信があった。
彼女の考えがそこに至った所で、目の前に突然光が生まれた。
驚く彼女を置いて、徐々に人の形を作るそれ。

「ルック?」

完全に人の形を成したそれを見て、コウが相手の名を呟いた。
彼の向こうに、驚いているティルが見える。
だがそれよりも、目の前で不機嫌を隠そうともしないルックの方が問題だった。

「馬鹿だね、君は」
「馬鹿って」

何故そんな事を言われなければならないのか。
コウの表情に表れた感情に、ルックが溜め息を吐き出した。

「あんな派手に魔法を使って…そっちに長けている人間に興味を持ってくれって言ってるようなものだ」

自覚しなよ、と呆れた様子で告げられる。
彼の説明を聞いて、コウはやっと自分の行動の危険性を理解した。

「ティル。コウは連れて帰るよ」
「え?どうして?」
「ここに置いて、ウィンディの手下と戦いたいって言うのなら、止めないけどね」

突然のルックの登場に驚いていたティルも、漸くその理由がわかったようだ。
コウは申し訳なさそうに目線を落とす。

「考えなしに魔法を使うのはやめてよね、まったく…」
「…ごめんなさい」
「ルック。彼女がいなければ、この森は跡形もなくなっていたかもしれないんだ。あまり責めないであげてよ」

庇うように二人の会話に割り込むティルに、ルックが表情を歪めた。
そして、溜め息一つを最後とばかりに、彼は口を噤む。

「ごめんなさい、ティル。私、ルックと一緒に帰るわ。…城で大人しく待っているから」
「うん。さっきも言ったけど、気にしなくていいからね。僕は、君の行動が間違ってるとは思わない」

気をつけて、と肩を叩く彼に、小さく笑みを返す。
そして、待ってくれているルックの所へと歩いていった。

「よろしくお願いします」
「…行くよ」

控えめに彼女の手を取って、テレポートを唱える。
跡形もなく消えたそこを見つめ、ティルが溜め息を吐き出した。
ルックが一緒なら、彼女の安全は保障される。
しかし、寄り添うように立った二人の姿が脳裏から消えてくれない。
今はリーダーとして成すべき事を―――自分自身にそう言い聞かせて、ティルは他の仲間に事を説明した。

09.07.17