水面にたゆたう波紋
031
夜も更けた頃、コウは一人バルコニーに姿を見せた。
はぁ、と吐き出した息が白く染まる。
マントの合わせ目から入り込んだ冷たい風が肌を撫でていく気配にゾクリとした。
隅に置かれたベンチにそっと腰を下ろし、肩のマントを抱き寄せる。
軽く瞼を伏せた彼女は、そのまま溜め息を吐き出した。
―――自己嫌悪。
その言葉が、最も適しているだろう。
原因は、ほんの数時間前の出来事に遡る。
ポタリ、と赤い血が床に落ちた。
コウを狙って放たれた武器が、肉を裂いたのだ。
引き裂かれたのは彼女ではなく、彼女を庇ったティルの腕。
一矢報いることに成功した敵は、そのまま窓枠へと足をかける。
「ウィンディ様はいつでもお前を狙っているぞ!」
男はそんな捨て台詞の後、コウを視界に映してから姿を消す。
コウはそれを見届けると、金縛りが解けたように、ティルの腕の傷を見た。
それを視界に映した時には、魔力の準備を終えていて、ケアル、と言う小さな声をきっかけにそれが発動する。
淡い緑色の光が傷口に集まり、見る見るうちに血を溢れさせるそれを塞いだ。
紋章とは違う魔法の力に、ティルは自分が怪我をしたことも忘れてその光景に魅入る。
やがて、完全にそれが塞がると、コウは魔力を止めた。
「ありがとう」
「…これくらい、当然だわ」
ニコリと微笑んだのだが、コウはスッと視線を逸らす。
まるで逃げるように離れてしまった彼女の視線に、彼は心中で首を傾げた。
別に礼を言って欲しかったわけではない。
けれど、彼女ならば間違いなく礼を述べてくると思っていた。
だからこそ、思いも寄らない行動を不思議に感じた。
しかし、そんな彼の心は、大丈夫ですか、と駆け寄ってくるメンバーによってどこかへ吹き飛ばされる。
大丈夫だから、と彼らをなだめるのに随分と長い時間を要した。
彼らの壁が取り払われた時、そこにコウの姿は見当たらなかったのだ。
「お礼も言っていない…」
なんて事、と額に手をやる。
助けてくれたと言うのに、何と言う礼儀知らずだろうか。
考えれば考えるほど深みにはまりそうな自分が嫌になる。
マントの中で膝を抱え、幼子のように縮こまるコウ。
そんな彼女の背後に、一つの人影が浮かび上がった。
「風邪を引くよ」
「!!」
ビクンと肩を揺らしたコウ。
しかし、彼女は声からその主を悟り、振り向かなかった。
いや…振り向けなかった、と言うべきだろうか。
彼女の背後に姿を見せたティルは、そんな彼女の反応に小さく息を吐く。
そして、足音を消すことなくその隣に腰を下ろした。
一人半分の間をあけて、二人がベンチに座る。
長い沈黙が二人を包んだ。
「―――」
「え?」
どのくらいそうしていたのか。
ティルはコウが何かを言うまで何も言わず、コウは何も言えなかった。
そんな長くも短い時間が過ぎ、かすかな声がティルの耳に届く。
「―――怪我は…?」
そう問いかけた彼女に、あぁ、と頷く。
「大丈夫だよ。コウが治してくれたじゃないか」
やはり、彼女はそれを気にしていたのか。
その点だけは予想通りだったようだ。
ティルの答えを聞いたコウは、漸く膝に埋めていた顔を上げる。
「…ごめんなさい。それから…ありがとう」
あの時に言えなかった言葉を告げる。
想定内の言葉に、彼は首を振った。
そして、考えていた答えを返そうと口を開いたのだが―――
「でも、もうやめて」
彼の言葉が始まる前に、強い口調で彼女はそう言った。
予想外の内容に、思わず声を失うティル。
「―――どうして?」
漸くその質問を口に出す彼に、コウは静かに続ける。
「私を庇ったりしないで。あなたは…解放軍にとってなくてはならない存在よ。
オデッサの時とは…違う。ティルの代わりはどこにも居ないの」
オデッサよりもリーダーとしての素質を持っているティル。
彼を失えば、解放軍は再び烏合の衆と化す。
彼の命だけは、何としてでも守らなければならないものなのだ。
「私を…誰かを庇ったりしないで。あなたは、解放軍のリーダーなのよ」
「………それでも、僕は助けるよ。守りたいんだ」
「それでは駄目なのよ、ティル」
「危険に晒されている人がいるなら、助けるよ。他の人でも、君でも」
会話が成り立っていない。
互いの主張ばかりが先に立ち、お互いの意見を受け入れられないで居る。
コウはもどかしげに声を荒らげた。
「あなたの命と私の命は違うわ!」
「同じだよ」
「ティルッ!お願いだか―――」
新たなリーダーを失うわけには行かない。
動き出した時代は、ここで勢いを止めてはならないのだ。
切実な声を上げたコウは、自身の頬へと伸びてきた彼の手によって、言葉半ばで口を噤んだ。
「同じだよ」
彼のあたたかい手が頬を撫でる。
何度かそこを撫でた彼の手が、ギュッと握り締められていたコウの手を取った。
手の平が触れ、指が絡み合う。
触れたところから体温を分け合っているかのようだ。
「僕も君も…同じ時を生きてる」
「――――それでも、違うのよ」
「同じだ。守りたいものがあるから、ここに居るんだ。
それが危険に晒された時、自分の手で守れないなら…僕はここにはいられない」
全てを守るとは言えない。
人に許された力には限界があるのだ。
けれど、守ろうと思ったものは、何に変えてでも守りたい。
「コウの言っていることはわかってるよ。失うことを恐れていることも」
「…ティル…」
「誰かを助けない、とは約束できない。だけど―――僕は死なない。それだけは約束するよ」
生きて、そして守りたいものも守る。
強さがなければそれはただの高望みにしか過ぎない。
けれど、それを行動に移してみせると言う、強い意思がある。
意思は時に、人を何倍も強くするのだ。
彼はこれからどんどん強くなっていくのだろう。
「―――私を庇わないで、と言うのも、駄目なのね?」
「うん。僕は君も守りたいんだ」
「どうして…」
怪我をすれば痛いと感じる。
あの時もそう感じたのに、彼女の目を見るなり浮かんだのは「無事でよかった」と言う安堵。
その奥に見え隠れする感情の名前を知っている。
見上げてくる彼女を見つめながら、ティルは小さく微笑んだ。
「君の代わりだって、どこにも居ないんだよ」
まだ少し。
もう少しだけ、曖昧な言葉で誤魔化しておく。
自分の感情に心が追いつく、その時まで。
08.11.06