水面にたゆたう波紋
029
お帰りなさい。
そう言って、優しい笑顔で迎えてくれたコウに、帰って来たんだと思った。
そして、同時に…ここが、自分の帰る場所なのだと自覚する。
生まれ育った家は、もう帰ることは出来ない。
いつの日か、きっと―――そう思っているけれど、それがいつになるのかはわからない。
こうして迎えてくれる人がいるならば、ここを新しい帰る場所にしてもいいだろうか。
どこか裏切りにも似た罪悪感は、彼女の空気によって静かに消えた。
「初めまして。レパント様でよろしいでしょうか?コウと申します」
スッと背筋を伸ばしてそういい終えると、コウは静かに腰を折った。
一連の動作は酷く洗練されていて、彼女の育ちの良さを感じさせる。
「道中、お話をお聞きしました。何でも、他国の紋章術に長けているとか」
どうぞよろしく、と声を返され、コウはちらりとティルを見る。
頷く彼の目が、口裏あわせをよろしく、と言っている。
大方、魔法のことを『他国の紋章術で、少し形態が異なっている』とでも説明したのだろう。
コウはレパントに視線を戻すと、ニコリと微笑んだ。
「お恥ずかしい限りです。解放軍のために、微力ながらもお手伝いさせていただいています」
「いやいや、その年で立派です。あぁ、こちらは妻のアイリーン」
そう紹介された、線の細い女性は、穏やかに微笑む。
解放軍と言う場所には似合わないな、と言う印象を抱いた所で、それは自分にも言えることだと思い出した。
「よろしくお願いします、アイリーン様」
「こちらこそ。どうぞ、アイリーンとお呼びください」
「おぉ、そうだな。私の事も、どうかレパントとお呼びください」
二人して敬称を外すようにと求められ、コウは少し困ったように笑う。
そして、「様」を「さん」と改める事で互いに妥協した。
「コウ。留守の間の話が聞きたい」
「あ、はい。すぐに行くわ」
ティルにそう呼ばれたコウは、話をしていたメンバーに一声かけて、去っていった彼を追う。
並んで歩いていく背中は、解放軍を預けるには小さすぎるように見える。
それでも前を向いて歩くその背中に、この国の未来を見た。
年相応に微笑む横顔が、先ほどまでとは違った一面を見せている。
「ティル様には、コウさんの存在が支えとなっているようですね」
ふと、アイリーンがそう呟いた。
穏やかに二人を見つめる眼差しは、さながら母親のような優しさを秘めている。
レパントは美しい妻から視線を外し、二人を見つめながら同意の声を上げた。
一週間と少し離れていただけの本拠地は、いつの間にか城と呼ぶに相応しく様変わりしていた。
その指示を出す前にここを離れてしまったことを思い出し、足りない所ばかりだと肩を落とすティル。
リーダーと言っても、まだひと月にも満たない。
しなければならないこと、すべきこと…何もわかっていないのだ。
誰かが補ってくれることは嬉しいけれど、いつまでもそれに甘えてはいられないだろう。
「…使い易そうな内装になったね」
何か会話を、と考えた末、そんな言葉が零れ落ちた。
唐突だっただろうか、と思ったけれど、彼女は驚いた様子はない。
寧ろ…その表情が明るくなっていると感じるのは、気のせいだろうか。
「ありがとう」
彼女はそう返事をした。
何故、彼女が礼を言うのか。
礼を述べると言うことは、つまり―――
「コウ、君が―――?」
「マッシュさんに頼まれて、内装を考えたの」
気に入ってもらえてよかった。
そう言って、どこか安心したように表情を崩す。
マッシュは何故彼女に…そう思ったところで、あぁ、と思い出した。
行動力や人当たりの優しさから忘れてしまいがちだが、彼女は異世界の王族だ。
城に馴染み深いであろう彼女にそれを頼むのは、人材の少ない現状では、最適なことだったのだろう。
彼女の様子を見ている限り、無理に押し切られたと言う風ではない。
「これからも頼むよ」
人が増えれば、城も変化せざるを得なくなってくる。
そんな思いをこめてそう言うと、彼女はニコリと微笑んだ。
「そう言えば…レパントさんは、問題なく仲間になってくれたの?」
「問題は…色々あったよ。そのお蔭で、レパントさんも仲間になってくれたし、パーンと再会出来たし…」
結果としては成功かな。
そう答えたティルに、コウは首を傾げた。
「パーン?」
「あぁ、ごめん。さっき紹介しておけばよかった。ガタイのいい男がいただろ?クレオと話してた」
「………ええ、覚えているわ。レパントさんの所から来てくれたのかと思っていたけれど…」
「彼は、元々父さんに仕えてくれていたんだ。実は―――」
ティルがグレッグミンスターを脱出した際の話を聞かせてくれる。
帝国側についてしまった仲間がいるという話は聞いていたが、それが彼だとは思わなかった。
「…こんな事を聞くのは失礼だと思うけれど…信じられるの?」
一度は帝国側についてしまった人だ。
こちらに戻ってきたからと言って、全面的に信頼していいのか。
躊躇いつつも、コウはそう問いかけた。
「…………………」
「…ごめんなさい。あなたを困らせたかったわけじゃないの」
「いや、わかってるよ」
少しばかり哀しげな表情を浮かべつつも、彼は笑みを浮かべる。
「…パーンが帝国側に回ったのは、父さんの為を思っての事だ。
裏切りじゃないし、自分の心に正直に生きたいと言って一緒に来てくれた。…信じてみるよ」
「そう。ティルがそう信じたのなら、きっと大丈夫だと思うわ」
励ますでもなく、自然な表情でそう答える。
そして、彼女は窓の外に見える湖を見つめた。
「これから…多くの人がこの城に集まるわね」
「そうだね」
「…人を…信じていけるかしら」
全ての人が、志を同じくして集ってくれるのが一番だ。
けれど、人が集まる所には、悪意を潜ませて寄り付いてくる輩がいることも否めない。
「…信じるよ」
彼女の隣に並び、同じ風景を視界に映す。
ティルの言葉は強く、そこに迷いはなかった。
その横顔を見つめ、小さく笑みを浮かべる。
「―――…行きましょう。マッシュさんが首を長くして報告を待っているわ」
出迎えに姿を見せたマッシュは、会議室にてお待ちしています、とフロアを去った。
自分からの報告を待っている様子を想像したティルは、クスリと笑う。
「コウ。昼から手合わせをしようか?」
「もちろん、お相手を頼めるのならばお願いしたいけれど…時間はあるの?」
「さぁ。マッシュ次第かな」
「…じゃあ、お願いしないと。でも、身体は疲れていない?」
「少しくらい運動しておいた方が、よく眠れるから」
大丈夫だよ、と告げる彼の言葉に安堵の表情を浮かべ、小さく頷いた。
08.09.20