水面にたゆたう波紋
024
彼女よりも、自分の方がずっと死に近い位置に居ると思っていた。
元々、向こうの世界では一度死んだのと同じだ。
ティルの紋章の恩恵がなければ生き延びることすら出来ない自分。
それなのに―――彼女…オデッサの方が、先に逝ってしまった。
彼女の鼓動が止まり、コウは無心で魔力を増幅させた。
頭の片隅で無駄だと理解しながらも、アレイズを唱えるために魔力と集中力を高めたのだ。
溢れ出した魔力が彼女の周囲を取り巻き、軽い着衣や髪を揺らす。
オデッサの死に驚いていたメンバーも、その只ならぬ様子に目を見開いてコウに意識を向けた。
彼女の魔力に呼応するように、その手の甲にある紋章が爛々と瞬く。
しかし、それは手袋に隠されていて、他のメンバーには気付かれなかった。
ただ一人…紋章を共有する、ティル以外には。
「コウ…」
彼の手が、そっとコウの紋章のあるほうの手を握る。
すると、高めていた魔力がまるで丸呑みされたかのように、忽然と消えた。
驚いたように振り向いた彼女は、ティルと視線を合わせる。
彼は何も言わず、ただ首を振った。
数秒間彼を見つめたコウは、腕の力を抜く。
そして、無言のまま身体を引いた。
そこからは誰も何も言わず、ビクトールがオデッサを抱えてアジトのもうひとつの出口を歩き出す。
十数分間、重い足取りで暗い通路を歩く。
途中、水路へと通じる道を曲がっていくビクトールに気付いたけれど、コウはそれを追うことが出来なかった。
心配そうな視線を一度だけ彼女へと向けてから、ティルも彼を追う。
数分後に戻ってきたビクトールの腕に、彼女の亡骸はなかった。
涙が乾いた頃に漸く外の地面を踏むことが出来た。
暮れ掛けていた夕日はすっかりと消え、空には星が瞬いている。
じめじめとした通路のかび臭い空気から解放され、それぞれが新鮮な空気を肺へと送り込む。
しかし、どんなに新しい空気を吸い込もうとも、心に立ち込める暗雲がなくなることはない。
休もう、と言ったのは誰だったか。
いつの間にか―――気がついた時には、野宿の用意が整っていた。
ぱちぱちと音を立てる火を見つめるコウ。
あれ以降、コウは一言も声を出していない。
時折、何かを探すように視線を巡らせ、そして肩を落とす。
感情の整理が出来ていないのだろう。
「余計なお世話かもしれないけど…少しは休んだ方がいいよ?」
メンバーの中では、コウ以外の唯一の女性であるクレオがコウにそう声をかけた。
コウは一度視線を彼女へと向け、やがて自嘲めいた笑みを浮かべて首を振る。
ありがとう、という声はなかったけれど、彼女の目がそう言っていた。
クレオは心配そうに彼女を見つめる。
そんな視線から逃げるようにして、コウはすっと立ち上がった。
そして、火の届く範囲から離れ、林の中を歩いていく。
「今は一人にしてやってくれ」
彼女についていこうとしたクレオに、ビクトールがそう言った。
腰を上げようとした彼女は、少し躊躇ってから座りなおす。
「本当に、姉妹みたいに仲が良かったからな。あいつは…近い者の死に慣れてない」
おまけに、兄のように慕う人は行方知れず。
支えてくれていた二人を一気に失ってしまったような状況なのだ。
慰めるのも、励ますのも、支えるのも―――自分では不可能。
ビクトールはコウの去っていった方を一瞥し、溜め息を吐き出した。
アジトから持ってきていた酒をグイッと呷る。
「今回は自分の力で立ち上がってもらう他はない……と思ったんだが…」
ビクトールはそう言いながら、そこに居るメンバーを見回した。
―――ひとり、足りなくなっている。
そのことに気付き、苦笑する。
「初めてだからな。誰かが手を差し伸べられるなら、それに越したことはない」
そう言って笑ったビクトールの言葉の意味を考え、そして理解する。
それと同時に、グレミオが慌てたように立ち上がった―――いや、立ち上がろうとした。
「グレミオ」
グイッとマントをつかまれ、否応なしに座りなおすことになった彼。
その原因であるクレオは、もうコウを心配した様子もなく、水を飲んでいる。
「いいじゃないか。ここは坊ちゃんに任せてみよう。上手くいけば坊ちゃんだって一回り成長するいい機会だよ」
「いや、でも…!」
「でも、じゃないよ。心配するのも大事だけど、今はコウのことを考えてあげるべきだろう?」
強い声でそう言われ、グレミオは言葉を詰まらせた。
確かに、今は自分が引くべきなのだろう。
二人は年齢も近いことから、何かと気が合うようだし―――心配は要らないのだ。
何とか自身をそう納得させ、グレミオは腰を落ち着けた。
「他のメンバーはどうなったんですか?」
「さぁな。まぁ、あいつらもそれなりに戦況を乗り越えてきた奴らだ。上手く生き延びてるさ」
そこに関しては心配していないのか、ビクトールはすぐにそう答えた。
残っていた酒を飲む。
喉を通っていくアルコールは、いつまでたっても彼を酔わせてはくれなかった。
ぼんやりと月を見上げる。
昨日は…隣に彼女が居た。
それなのに、今日は一人だ。
いや…今日からはずっと…彼女が隣に座ることはない。
「オデッサ…」
泣いてばかりでは駄目だと言われた。
無理だと言いたくても、彼女はここに居ない。
「泣くなって…私、そんなに強くない…っ」
たった一人で放り出されたこの世界。
誰一人知る者の居ないこの世界で、コウにとってオデッサは一番近い人だった。
フリックとオデッサは、他のメンバーよりも近い場所に居て、いつだって自分に微笑んでくれて。
―――幸せだった。大好きだった。
「ひとりにしないで…」
コウは自分の身体を抱きしめた。
泣いてばかりでは駄目―――その言葉が、まるで一種の洗脳のように、コウの涙腺を締め上げる。
もしくは…泣きすぎて、涙が涸れてしまったのか。
涙をこぼしていなくとも、心が泣いている。
コウの心に呼応するように、紋章がドクン、と鼓動した。
―――…………。
「…え?」
どこからか流れ込んだような感情に、バッと顔を上げ、手の甲を見下ろす。
手袋をはずしたそこには、はっきりとした紋章が見て取れた。
コウは緩く頭を振った。
そんな、こんなときに浮かぶ感情じゃない。
「や…今の……何…」
自分の中にそんな感情が浮かんでしまったことが、恐ろしくてならない。
そんな事を考えたわけではないのに、何故―――
言葉に出来ない恐怖が押し寄せた。
「―――コウ…?」
不意に、後ろから聞こえた声に、コウは弾かれたように振り向く。
困惑したような、心配そうな…そんな表情を浮かべたティルがそこに居た。
頭が何かを考えるよりも先に、身体が動く。
縋るように、半ば体当たりをするようにしてティルに抱きつく。
「コウ…何かあったの?」
先ほどとは違う様子の彼女に、ティルは心配そうに問いかける。
コウはそれに答えることも出来ず、ただ首を横に振った。
ありえない。
ありえてはならない。
まさか――― 嬉しい と感じるなんて。
08.05.28