水面にたゆたう波紋

023

手放したくないと思うものほど、簡単に手の平から零れ落ちてしまう。
最初に失ったのは、母だった。
妹たちを産んだ母は、嬉しそうに微笑んだまま静かに息を引き取ったのだ。
今でもその時の彼女の表情が忘れられない。
自分もこんな風に穏やかな表情で死んでいけるのだろうかと、朧気ながらもそう思った。
現実はとても苦しくて、こんな所で終わってしまう自分が悲しくて…とても、笑ってなんていられなかったけれど。

二番目は、仲の良かったメイド。
父に一週間頼み続け、ようやく町に出かけることが出来たコウ。
初めて出かけるその時に、一緒に来てくれたのがそのメイドだ。
けれど…コウを狙った野盗から彼女を守った所為で、片腕を失った。
無事でよかったと微笑んでくれたけれど、その事件はコウの中に深い傷を残した。

そして今―――また、大切なものが手の平から零れ落ちようとしている。

「オデッサ…嫌です、オデッサ…ッ」

彼女の血をまとった手が、ヌルリと滑る。
それが、まるで彼女の命を掴み損ねていることを示しているようだ。














レナンカンプの町は、いつもと変わらぬ風景で一行を迎えてくれるはずだった。
しかし、どこか雰囲気が物々しい。
嫌な予感を覚えつつ足早に宿屋へと足を踏み入れる一行。
この時点で、きっと未来は決まってしまっていたのだろう。

「どうしたの、これは…」

信じられない、と言った様子で呟くオデッサ。
彼女の前には、宿の主人が傷を負って横たわっている。
痛みに喘ぎつつも、主人は帝国がやってきたのだと伝えた。
彼の身を気遣っていたオデッサだが、その言葉を聞いてすぐに二階へと走り出す。
地下への入り口へと急いだのだろう。

「おい、オデッサ!」
「追いましょう、坊ちゃん!」

ビクトール、グレミオと順番に動き出す中、ティルは一番に走り出すはずのコウが居ないことに気づく。
振り向いてみれば、彼女は横たわる主人の傍らに膝をついていた。

「コウ、君は…」
「この人は助けられる」

先に行ってて、と返事をする時間すら惜しむように、彼女は傷口に手を翳す。

「ケアルラ」

魔力を送り込むコウの手の平がほんのりと柔らかい光をともした。
傷口へと降り注ぐそれに、主人の表情もいくらか和らいだように見える。
その光景に目を奪われるようにして、ティルの足はその場に縫い付けられた。
まるで、ソウルイーターがその姿を目に焼き付けることを望んでいるように、紋章が疼く。
程なくして、彼女は意識を失った主人の脈を確認し、急いでこちらへと駆け寄ってきた。

「待っていてくれなくても良かったのに」

そう言いつつ、2段飛ばしで階段を駆け上がる。
二人で並んで部屋に飛び込み、コウが先に置時計の奥にある地下への入り口に一歩目を踏み出した。
と、その時―――聞こえた、絹を裂くような悲鳴。

「――――っ!!」

コウの足が思わずぴたりと止まってしまう。
竦んだ、と表現した方が正しいだろうか。

「コウ、急ぐんだ!!」

ティルが彼女を追い越し、そしてその手を引いて走り出す。
半ば滑り落ちるようにして地下への階段を下りると、悲鳴が聞こえたそこを目指した。
そこへと辿り着いた二人の視界に飛び込んできたのは、血に塗れて横たわるオデッサの姿。
心臓がドクン、と嫌な音を立てた。
















「オデッサ!?」

オデッサを支えているビクトールのすぐ隣に滑り込むように膝をつく。
硬い石の床が肌を傷つけたけれど、そんな事を気にしている余裕はなかった。

「コウ…。ごめん…なさい、ね」

力なく微笑む彼女に、コウは血の気が引いていく感覚を必死に抑え込み、代わりに魔力を高める。
彼女の傷口へと手を押し当て、直接魔力を流し込んだ。
しかし、彼女の命は急速に『生』を失っていく。
加速するそれをとめることは、この世の理に反すること。
コウの魔法をもってしても、それをとめることは出来ない。

「もう…無駄、よ…。コウも、わかっているでしょう…?」

そう言って苦笑いに似た表情を浮かべる彼女。
リーダーとしてではなく、一人の女性として、彼女はその人生を終えようとしている。
子供を助けて命を落とすなど…本当に、リーダーらしくない。
けれど、そんな子供を見捨てられないからこそ、彼女はリーダーだったのだろう。

「助けるから…だから、もう喋らないで!」

涙に言葉を詰まらせながら、コウは必死にケアル系の魔法を唱え続ける。
小さな傷が癒えようとも、死へと歩いて行く彼女の命を止められない。
誰よりもそれを感じ取っているコウは、嫌だと首を振った。

「オデッサ!死を受け入れないでっ!!」

死にたくないと願ってほしい。
心がそう思っていなければ、状況はますます加速するだけ。
必死になってそう訴えるも、オデッサは柔らかく微笑むだけだ。

「…恩だとか…そういう、つまらないことで…縛られちゃ駄目よ。あなたには、未来がある…きっと、幸せな…」
「やめて、オデッサ!あなたにだって未来はある!」
「………妹ができたみたいで、嬉しかった…。泣いてばかりでは、駄目よ…」

すっとコウの頬を撫でる。
指先を濡らす赤が彼女の頬に一筋の痕を残した。

「コウ…」

後ろからビクトールが彼女の肩に手を添える。
振り向いた彼女に、彼はゆっくりと首を振った。

「ティル…私の願いを聞いてくれる…?」

ビクトールに支えられて下がっていくコウを横目に、オデッサは彼を呼ぶ。
コウと入れ替わるようにして彼女の傍らに膝をついたティルは、彼女にイヤリングを手渡された。
彼女はティルに二つ…いや、三つ、頼みごとを告げた。

ひとつはこのイヤリングをセイカのマッシュと言う人の元へと届けること。
ひとつは、自分の身体を水へと流すこと。
そして…コウのこと。

―――出来るなら、コウと一緒に居てあげて。

オデッサはコウには聞こえないように声を潜め、ティルにそう告げた。
最期の言葉として残してしまうと、無理強いをしてしまうことになる。
わかっていても、頼まずには居られなかった。
すでに頬を涙で濡らしているコウを見つめ、オデッサは微笑む。

「最期は…笑って、お別れしたいわ」

そう言って笑顔を浮かべる彼女。
しかし、コウは首を振ることしか出来ない。

「出来ない…こんな時に私…笑えない…」

自分の時だって、最期なのに妹に笑顔のひとつも残してあげられなかった。
姉のように慕って、その人となりを好きだと思った人が居なくなってしまいそうなのに、笑うことなど出来ない。
涙を零すコウに、オデッサは困ったような笑みを浮かべる。

「じゃあ…私の笑顔だけは、覚えておいて?そして…出来るなら、コウも…笑って、最期を―――」

オデッサの手が力を失い、コウの手の平から滑り落ちる。
声を失ったように、コウは何も言わない。
ただ、静かに頬を濡らす涙を増やした。


重苦しい空気の中、誰一人として気づくことのない場所で、小さな変化が起こっていた。
コウとティルの手に宿った紋章が、手袋の下でドクン、と鼓動を打つ。

08.05.23