水面にたゆたう波紋
022
翌朝、全員が揃うと、オデッサがレナンカンプに帰ると言い出した。
昨日の今日でそのようなことを言い出した彼女に、他のメンバーが驚く。
「大丈夫。もう用事は済んだから」
彼女はにこりとそう微笑んだ。
昨夜、ベッドに入り、それから今までの間に用事が済んだと言うのだろうか。
呆気に取られた様子の面々を前に、彼女はティルを見た。
「昨日の夜に、ね?ティル」
同意を求めるように首を傾げた彼女に、ティルは何も言わずただ一度だけ頷く。
何やら怪しさを感じさせる彼女の言い方に、グレミオがティルへと詰め寄る。
そんな様子を見ながら、コウは別のことを考えていた。
「(昨晩のティルの様子は…オデッサが原因なのね)」
しかし、コウはそれを言及するつもりはない。
オデッサがティルに何かよくないことをしたとは思わないからだ。
状況が落ち着くのはいつになるだろうなぁ、などと他人事のように考えつつ、カップの中の茶を飲み込んだ。
行きに通った道を、逆向きに進む。
分岐路も迷うことなく進んでいるお蔭で、半分ほどの時間しかかかっていなかった。
日が暮れたところで、サラディ・レナンカンプ間の、およそ半分のところまで進んだ。
夜が訪れ、順番に見張りをしながら休む。
コウは、1番目の見張り役を買って出たオデッサの隣に座った。
「…眠れないの?」
「……そうみたいです」
仕方ないわね、と苦笑いを浮かべ、オデッサはコウが火に近づけるようにと少し身体を移動させる。
開いたスペースに移動したコウは、揺らめく火を見つめた。
「この旅の間…調子が良いみたいね」
ふと、オデッサがそう言った。
コウは横目で彼女を見て、再び火に視線を戻す。
「そうですか?」
「ティルが一緒だから?」
そう問いかけたオデッサに、コウは少し驚いたような表情を見せた。
まさか、気付いているのだろうか。
そう思うが、次に続いた言葉により、その考えは消える。
「彼と居るときのあなたは、年相応の女の子ね。そう言う心は大切よ?」
「…オデッサは何か勘違いをしているような気がします。私は、別に…」
「あら、隠そうとしなくて良いのよ。私は反対したりしないわ」
そう言う方向に持っていこうとする彼女に、コウは溜め息を吐き出した。
そうではない、自分が彼の傍に居るのは―――
オデッサにそれを教えようとは思わない。
だからこそ、彼女を納得させるだけの返事が返せなかった。
「人を好きになるって事は、とても素敵なことよ。心が…幸せになるの」
何かを思い出すように、オデッサは目を細めた。
その微笑みは驚くほどに儚い。
コウには、彼女の目に映っているのは、フリックではないような気がしてしまった。
「あなたはもう、自分を制して生きていく必要はないの。自由に生きていいのよ」
「…そう…ですね」
「沢山のものを見て、沢山の人と出会って…狂おしいほどに、誰かを愛することも出来る。
何かをする前から、心に制限をかけちゃ駄目よ」
言い聞かせるような彼女の表情は、まるで母親のような自愛に満ちていた。
ストン、と胸の中に落ちた彼女の言葉に、コウの記憶の中から自分の声が甦った。
―――全身で風を感じて、自分の足で歩いて………狂おしいほどに誰かを愛してみたい。
部屋から出ることも出来ず、窓枠に切り取られた空を見上げていたあの頃。
そんな風に、出来ないとわかっていることを切望していた自分が、こんなにも懐かしく思う。
「ねぇ、コウ」
「何ですか?」
「……隠していることを、話してくれる気はないの?」
あぁ、彼女はやはり気付いていたのか。
コウが何を隠しているのかまでは気付いていないだろう。
しかし、何かを隠していることを悟っている。
「…何も、隠していませんよ」
オデッサには言えないという訳ではない。
彼女のことは姉のように慕っているし、信じている。
言えないのではなく、言わないのだ。
人々の希望を背負って戦っている彼女に、これ以上何も負担にしたくはなかった。
例え、自分の命がかかっているのだとしても。
「何も隠していません。オデッサは気にしなくていいんですよ」
コウに出来たのは、偽りの笑顔を貼り付け、言葉を嘘で固めることだけ。
オデッサは、彼女の言葉にそっと目を伏せた。
彼女が何も話さないことはわかっていた。
自分を信用していないからではなく、別の理由があって話してくれないのだということも、わかっている。
けれど…出来ることならば、話してほしかった。
「そう…。私の勘違いだったのね」
オデッサに出来たのは、コウの嘘に騙される振りをすることだけ。
「明日にはレナンカンプに帰れるわね」
久しぶりだわ、と呟く。
1週間と少しの間離れていただけなのに、そう感じてしまう。
「コウは、もしティルがアジトに留まらないなら…どうするの?」
「オデッサ。私は、あなたと共に戦うと決めました。今更…その意思を変えるつもりはありません」
コウは目を閉じ、前に見える二つの道を視界から追い出す。
彼と共に行き、その紋章の力を借りて生きる道。
彼女と共に戦い、終わりの見える命を生きる道。
コウは、彼の紋章から離れて長く生きることは出来ない。
1年なのか、半年なのか…紋章の力が尽きる期限はわからないが、それでも。
彼女には、助けてくれた彼らを放ってティルを選ぶことは出来なかった。
「…コウ、私は…勝手な想像だけど、ティルは解放軍を放っていかないと思うの」
「オデッサ…」
「ふふ…。不思議ね、まだ出会って間もない彼を、こんなにも信じてる。
彼の…人を惹きつける力は、きっと私よりも―――」
最後はまるで独白のような呟きだった。
木々の葉の隙間から見える夜空を見上げるその姿が、どこか頼りない。
ここに居るはずなのに、遠くに行ってしまうような錯覚を起こした。
そんな考えを振り払うように、コウは小さく頭を振った。
―――彼女はここにいる。
それをより強く感じるために、コウはじっとオデッサを見つめた。
08.05.12