水面にたゆたう波紋

021

サラディへと到着した一行は、宿を取って工場からの使者を探す。
しかし、使者は現れなかった。
とりあえず、その日は宿で休み、夜が明けてから使者を待つことになる。
旅の仲間が寝静まった頃、コウはふと目を開いた。
むくりとベッドから上半身を起こす。

「(…今日は眠れない夜、か…)」

こちらの世界に来てからと言うもの、時折そう言う夜がある。
皆に合わせてベッドに入り、目を閉じるのだが、一時間たっても二時間たっても、一向に眠気がやってこないのだ。
何が原因なのは、わかっていない。
コウは静かにベッドを降り、そして足音を殺して部屋を出た。
ベランダに出るという手もあったけれど、少し外を歩きたいと思ったのだ。
正面玄関の前に立つ。
ドアはしっかりと施錠されているようだ。
どうしようか、と少し悩んだ末、コウはその鍵を開けてしまう。
そして、外へと出てからドアを振り向き、小さく「ブリザド」と唱えた。
小規模な氷の塊が生まれ、ドアと床の接点を凍らせる。
こうしておけば、鍵が閉まっていなくてもドアは開かない。
ドアノブを引いてもピクリとも動かないことを確認し、コウは外へと歩き出した。
眠った町の中は、虫の声と、時々聞こえる梟の声だけが音となっている。
あまり遠くに離れてはいけないだろうと、宿の裏に回る事にしたコウ。
丁度良い木箱を見つけ、その上に腰を下ろした。
見上げた空には、三日月が浮かんでいる。

「…解放軍、帝国………戦争…」

ポツリと呟く。
その言葉の重みを、少しずつわかってきている気がする。
自分の部屋と、城の中だけがコウの世界だったあの頃とは違う。
新しい世界は無限に続いているような錯覚すら感じさせた。
しかし、それは綺麗事ばかりではない。
奪い、奪われ…必死に今を生きている人々や、モンスター…動物達の姿。
コウはその姿を脳裏に浮かべ、そして首を振った。
そして、その考えを拭い去るように、別のことを考える。

「レナやサリサは元気かしら…」

もう二度と会う事はないであろう妹達を思い浮かべた。
幼い頃に海に落ち、行方がわからなくなったサリサ。
城の者はすでに彼女の生存を諦めていたけれど、コウはどこかで生きてくれているのではないかと思っている。
いや…そう信じたい、といった方が正しいのかもしれない。
親である以前に国王である父は、いつまでも彼女の事ばかりを考えてはいられなかった。
そんな彼に代わり、せめて自分だけは最後まで彼女の生存を信じていようと誓ったのだ。
結局、再会することも出来ずにこの世界に来てしまったのだけれど。
その後を知らないからこそ、絶望することもなく彼女達の将来を案じることが出来る。
会えないことは辛いが、今命があること自体が、コウにとっては奇跡だった。


当てもなくさまよう船のように、色々なことを考えた。
どれも結論を急がなければならないようなものではなく、本当にただ考えていただけの時間。
数分だったのか、数十分だったのか。
コウは漸く部屋に戻る決心をして、木箱から立ち上がる。
自分の体温の移ってしまったその上を一撫でしてから、玄関へと向かって歩き出した。











正面の玄関は、コウが凍らせたままの状態になっていた。
もちろん、その氷が溶けてしまっているということもない。
もし不自然に砕けていたならば、即座に武器を取り出していただろう。
小規模なファイアでそれを溶かし、音を立てずに開いた玄関のドアから中へと滑り込む。
鍵を閉め、ドアが開かないことを確認したコウ。
部屋へと向かうべく、くるりと―――

「――――――っ!!!」

振り向いたところで、叫び声をあげそうになり、慌てて自分の口を塞ぐ。
悲鳴を何とか飲み込み、落ち着くようにと深呼吸をした。

「叫ばれたらどうしようかと思ったよ」

あぁ、よかった。
そう言って、恐らくはコウの口を塞ごうとしたであろう手をぷらぷらと揺らすのは、ティルだ。
おきていたのか、と思うよりも先に、恨み言が口をついて出てくる。

「叫んでしまったらどうするのっ。心臓が口から飛び出すわ…」

今でもバクバクと忙しなく血液を送り出しているそれを押さえつつ、コウは静かに怒鳴った。
そんな彼女に、彼は苦笑を浮かべて「ごめんね」と呟く。

「驚かせるつもりはなかったんだ。本当は、外に出ようと思ったんだし」
「……外に何か用事?」
「ううん。もう終わった」

そう答える彼に、コウは訝しげな表情を浮かべる。
先ほどまでは用事があったのに、今は終わっている。

―――自分が関係するのだろうか。

勘は悪くないコウは、即座にそう判断した。

「起きていったのは知ってたんだ」
「…起こしてしまった?」
「寝ていなかったから、大丈夫。それで、上のベランダに出ていて…外を歩いていく君を見つけた」

こんな時間に、女性が一人で外を歩くなんて。
小言のひとつも言いたくなった彼は、部屋を横切って宿を出ようと玄関までやってきた。
鍵が開いているのを確認し、ドアを押し開こうとしたのだが…1ミリたりとも動いてくれない。
訳がわからずに混乱しかけた頭を下に向けたところで、ドアの隙間に見える氷に、その原因を理解した。
結局それを開ける術を持たなかった彼は、ここでコウを待っていたというわけだ。

「…ごめんなさい。出て行く人のことは考えていなかったわ…」
「いや、うん。僕が言いたいのはそこじゃないよ」

わかってるよね?と問いかける彼に、コウは小さく頷く。
そこで、彼女はふと何かに気付いた。

「ティル…どうしたの?」
「え?」
「紋章が疼いている。心が不安定みたい…何かあった…?」

躊躇いがちにそう言った彼女に、彼は軽く目を見開く。
そして、その驚いたような表情を苦笑へと切り替えた。

「…まいったな…。隠し事が出来そうになくて…ちょっと困る」
「あ…それは、私も思うわ。これだけ近くに居ると、感情の波が全部伝わってしまうから…」

隠したいと思っていても流れていってしまうのだ。
喜楽の感情ならまだしも、負の感情はあまり嬉しくはない。

「何か…あったよ」
「…そう」
「君だから言いたくない…言えないわけじゃない。ただ、これは僕の問題だから」

突き放しているわけではないのだと示すように、彼は優しく微笑んだ。
コウは、彼の言葉に困ったような笑みを零す。

「じゃあ、聞かない。…でも、これだけは言っておくわ」
「コウ?」
「何を悩んでいるのかはわからない。だけど、私は…ティルがどんなことを思って、どんなことをしても。
この紋章が繋がっているからと言うわけではなく、あなたを信じている」

正面から逃げることなくそう告げる彼女。
言葉を失ったティルは、程なくして肩の力を抜いた。
少し、気を張っていたらしい。
正しい選択をしなければならないのだと思っていた。
ベランダでのオデッサもまた、「自分ならば正しいものを選び取ることができる」と言った。
けれど…コウにそう言われ、自分の望むものをもう一度考え直してみようと思う。

「ありがとう」

小さくそう告げると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見て、彼は自然とコウに向けて手を伸ばす。
まるで、その笑顔に引き寄せられるように。

「―――ティル?」

彼女の頬にその手が触れようとした、その時。
コウが不思議そうな表情で彼の名を呼んだ。
それがきっかけとなり、ティルは我に返ったように手を引っ込める。

「も、もう寝ようか。明日も早いし」
「?…ええ、そうね」

くるりと踵を返した自分を、彼女はどう思っただろうか。
いや、それよりも…自分は、今何をしようとしたのだ。

「(彼女に触れたいなんて、そんな…)」

恋人でもないのに、と心中で自分を叱咤する。


―――見えない何かが動き出した。

08.05.06