水面にたゆたう波紋
020
多少の疑念を抱きつつも、一夜を宿で過ごす。
そして、一行は山を越えてサラディを目指した。
「そう言えば、コウ」
何度目かの戦闘を終えた頃、オデッサがそう声をかけた。
弓の構えを解いたばかりだったコウは、彼女の声に振り向く。
「あの時、薬なしにぬすっと茶の毒を解毒してくれたって聞いたんだけど…本当なの?」
「ええ。万能薬は持ち合わせがなかったので、魔法で対処しました」
それが何か?と首を傾げる。
コウの返事に、オデッサは驚いたように目を見開いた。
「コウの世界には万能薬があるの?」
「え、ええ…貴重なものですけれど、お金さえあれば手に入らないことはありません」
「どんなステータス異常も治せる万能薬?」
「そうです。生まれつきの体質や病気は治せませんけれど」
それ以外ならば、治せないものはない。
だからこそ「万能薬」と名づけられているのだから。
「確か、紋章魔法にもステータス異常を回復するものがありますよね」
「ええ。だけど…私の知っている人の中に、そこまで紋章を極めた人はいなかったわ」
上級魔法と言っても過言ではない。
回数自体も制限されていて、本当に必要に迫られた時にしか使えないのだ。
それを考えると、コウの言っていた万能薬の存在は素晴らしい。
「万能薬の製法を知っている?」
「…知らないことはありませんけれど、全てを知っているわけではありません。
その道に詳しい方と突き詰めていけば、最終的に限りなく近いものは作れると思います」
万能薬を作ることが出来ると断言できるほどに、コウはその道に精通していない。
だが、知識として…他の人よりは10歩ほど進んだ所まで知っている。
不足を補える、薬に関する豊富な知識を持った人がいるならば、あるいはそれを生み出すことが出来るかもしれない。
どれも仮定の話なのだけれど、可能性はゼロではなかった。
「万能薬があるなら、身代わり地蔵のようなものもあるの?」
「あれとは少し違いますけれど、似たようなものならありますよ。効力は、戦闘不能状態からの回復ですね」
「死んだ人を生き返らせられるの?」
少し驚いたような声色の彼女。
コウは考える素振りも見せず、いいえ、とそれを強く否定した。
「死んだ人を生き返らせることは出来ません。それは、人に許された領域を超えた能力です」
「そうなの?」
「死に近い…けれど、死ではない状態であれば、回復させる魔法があります」
そう言ってから、コウは一旦そこで言葉を区切った。
それを告げることを躊躇う様な素振りを見せ、しかしやがて決心したようにオデッサを見る。
「死に行く者を止める魔法ではありません」
自ら死に行く者を止めることも確かに難しいが、コウが言っているのはそう言う意識的なことではない。
意思とは無関係に、死に向かって歩む肉体を回復させることは出来ないといっているのだ。
魔法に頼らないでほしいと言うコウの心の声が聞こえるようだった。
「万能薬で人が蘇らないのと同じように、魔法で誰かを生き返らせることは出来ません。
だから、魔法があるから大丈夫と安心しないでください。致命傷を救う術を持っているわけではありませんから」
コウがそう言い終わった所で、二人の間に微妙な空気が流れる。
重苦しいというほどではないけれど、決して明るくはないそれ。
前を行く一行とは少しばかり距離を開けて話していた二人の会話は、他の者には聞こえていない。
「コウ。話は終わった?ちょっと来てほしいんだけど」
不意に、話が切れるのを待っていたように、自然なタイミングで声をかけてくるティル。
コウは確認するようにオデッサを見る。
彼女が頷くのを見届けてから、数歩早足で歩いて今度はティルの隣に並んだ。
「何?」
「別に用はないよ」
そう言って微笑むと、彼はすぐに前を向いてしまう。
その答えに、コウはわけがわからない、と首を傾げた。
わざわざ近くに呼び寄せたにも関わらず、彼は何もないと言う。
それならば、なぜ自分を近くに呼ぶ必要があったのか。
疑問が疑問を呼び、答えには結びつかない。
堂々巡りのような状況を迎えていたコウの思考にストップをかけたのは、またもやティルの声だった。
「そんなに混乱しなくても。本当に、深い意味はないんだよ」
「混乱って…」
「顔に出てるし、何より紋章からコウの感情の波が押し寄せてくるから」
その時強く前に出ている感情は、一部が彼の元へと流れてしまうらしい。
それを聞き、コウはハッとした。
「困ってたから…?」
「…って言うよりは、悲しそうだったから、かな」
自分をオデッサの元から呼びつけたのは、あれ以上会話を続けさせないためだったのか。
今更に彼の配慮が理解でき、コウは納得した。
「何かあった?」
話の内容までは聞こえていなかったらしい。
質問する声に強制力はなく、言いたくなければ言わなくてもいいとその声が語っている。
コウは視線を前へと向け、口を開いた。
「魔法は万能ではありません。現に、私は向こうの世界ではどんなに頑張っても自由に生きられない身体だった」
「うん」
「…母が死んだ時に、痛いほど理解した」
それを思い出してしまっただけ。
コウはそう言って小さく苦笑いを浮かべた。
もう、10年以上も前のことだ。
自分の中ではすでに消化できた過去だったはず。
きっと、オデッサも気づかなかっただろう。
見えない絆を持つ紋章の力は、いつだってコウの予想の遥か上を行く。
「感傷に浸ったわけでもないのに、気づくのね」
「そんなに強い感情じゃなかったよ」
「ごめんね。他人の負の感情なんて、煩わしいだけでしょう?」
意図せずに流れてくる他人の感情。
流されない意志の強さがあったとしても、それは決して嬉しいことではないはずだ。
いずれ、使い方を覚えれば感情が流れるのを防ぐ術はあるのかもしれない。
しかし、今のところそれを実行に移すのは出来そうにないのだ。
申し訳なさそうに眉を下げるコウに、ティルは苦笑交じりに首を振る。
「中々新鮮だよ。何を考えてるのか、その詳細までわかるわけじゃないし…。何が悲しいのかな、って思う程度だから」
「…これって一方通行なのかしら。私はあまり感じないんだけど…」
「んー…一方、って事はないと思うよ。たぶん、僕があまり感情を動かしてないだけじゃないかな」
彼の答えに、一瞬だけ不公平だと思ってしまう。
けれど、それを口に出すことはなかった。
今は、こうして、ささやかに配慮してくれる気持ちに甘えておこう。
いずれ逆の立場になったとき…その時に、今までの恩を返せばいい。
いつまでこのポーカーフェイスが続くのかはわからないけれど、その時に期待することにしよう。
コウは、小さくそう決心した。
08.04.25