水面にたゆたう波紋

019

宿屋の入り口のドアを開く。
ノックすべきだろうかと考えたけれど、何も個室のドアを開こうと言うわけではないのだ。
必要はないだろうと思い、それを押し開く。
その先に見えた光景に、コウは目を瞬かせた。

「な、何だお前は…!」

焦ったようにそういった男は、コウと自分の手元を交互に見て、ハッと我に返る。
そして、慌てたようにオデッサの荷物を探っていた手を引っ込めた。
目の前の光景を理解するまでに少し時間をかけてしまったコウ。
徐々に脳内の整理が出来てくるのに伴い、彼女の目は冷たく細められていく。

「オデッサ…ティル…」

コツ、と足音を立てながら部屋の中を歩き、床に倒れこんでいるティルの傍らに膝をついた。
一番出口に近いところに彼が倒れていたのは、恐らく彼が最後に倒れたからだろう。
そっと首元へと伸ばす手が震えている事に気づき、心中で自分を叱咤する。
紋章が疼いていない以上、彼の命に別状はないはずだ。
そして、その首筋に指先を触れさせる。
コウは皮膚の向こうに血の流れを感じ取り、安堵したように身体の緊張を解いた。

「彼らに何をしたの?」

睨みつけた彼女の眼差しは鋭く、射抜かれた男…ルドンは「ヒッ」と竦みあがる。
中々の大所帯だから、正確な人数は把握していなかった。
しかし、まさかまだ仲間が残っていたとは…予想しない状況に、ルドンの頭は正常な思考を放棄している。

「何をしたのか聞いているの!」

コウが声を荒らげるのにあわせ、ビシッと窓際に置かれた花瓶にヒビが入った。
彼女の怒りが魔力を増幅し、一種のカマイタチのような現象を巻き起こしているのだ。

「ヒィィ…!ぬ、ぬすっと茶を飲ませただけです~!!」
「効果は?」

コウがそう問いかけた所で、再び宿屋のドアが開く。
コウは、反射的にそちらを見たルドンの目が輝いたのを見逃さない。
彼の行動により、今まさにドアを開いてきた男がこの目の前の男の仲間だと判断した。
護身用に腰に挿しているナイフを抜き取り、男の背後へと回る。
そして、男の得物を押さえ、もう片方で握ったナイフを首筋にピタリと押し当てた。

「…いい女だが…随分と物騒なもんを持ってるな、嬢ちゃん」
「動かないで。…お茶の効果を説明しなさい」
「ケスラーの親分~…!」

頼りない声を聞き、この男の方が彼よりも地位が高いのだと理解する。
と言う事は、より状況を動かし易くなっているわけだ。

「…ルドン。説明してやれ」
「は、はい!ぬすっと茶には毒が入っていて、全身麻痺と強い睡眠作用がありますっ!」

ビクッと姿勢を正してそう説明し出すルドン。
それを聞いたコウは、その言葉が正しいのかどうかを彼の様子から探る。
状況から考えるに、彼が話している事は真実なのだろう。

「命に影響は?」
「……………少しずつ」

ほんのちょっと、とばかりに親指と人差し指で円を作り、1センチほど隙間を開けてみせる彼。
同時に、彼の後ろでガシャンッと花瓶が砕け、再び「ヒィ!」と竦みあがった。

「…その辺にしとけよ、嬢ちゃん。こうしているうちにも………ん?」

ケスラーと呼ばれた男は、首筋にあるナイフにも動じずに冷静だった。
だが、言葉の途中で何かに気付いたように首を傾げる。
それを確認するようにじっと見つめ、やがてジロッとルドンを睨み付けた。

「おいルドン!!てめぇ、なんて事をしやがったんだ!!」

突然そう声を荒らげた彼に、コウは二・三度瞬きをする。
怒鳴られたルドンはと言えば、気の毒な程に竦みあがり、身体を震わせた。

「こいつ、いやこの方が誰か知ってるのか!!」

ナイフを物ともせずに歩き出してしまった彼に、コウは思わずそれを離した。
そうしなければ、ナイフが彼の首筋を切り裂いていただろう。
それを気にすることもなく、ケスラーはルドンの胸倉を掴む。
どうやら、話の内容を聞くにこの男はオデッサの事を知っているようだ。
解放軍のリーダー、オデッサ。
彼女と、床に倒れている女性とが一致し、ルドンは表情を青くした。

「え、もしかしてこの方が…」
「その通りよ。ほら、早いところ解毒剤を用意―――」
「必要ないわ」

ケスラーの声を遮るようにそう言えば、彼らの視線がコウへと向けられる。
しかし、既に魔法を使い始めていた彼女は、彼らに視線を返さない。

「エスナ」

コウがそう紡ぐのと同時に、倒れている全員を優しい光が包む。
やがて、彼らの身体から何かが抜け、中へと飛散した。

「ほぉ…紋章…とは違うな」

感心したようなケスラーの声が聞こえたが、コウはそれには答えずに仲間の元へと歩く。
まず、オデッサの元へと近づいた。
彼女の接近に合わせたように、オデッサの瞼がピクリと動く。
薄っすらと開かれた目は、ぼんやりとした様子だった。

「オデッサ」
「………コウ…?」
「ええ。私です。大丈夫ですか?」

そう問いかけながら、起きようとしている彼女に手を貸す。
彼女が大丈夫、と答えたのを見届け、他のメンバーにも視線を向けた。
徐々に起き出している彼らにも影響はないようだ。

「申し訳ありません、オデッサ様」

そう言ってケスラーがオデッサに向かって頭を下げた。
コウはそれを一瞥してから、立ち上がったティルの元へと歩く。

「大丈夫?毒が入ってからそんなに時間は経っていないけれど…皆、回復した方がいいかしら」
「いや、大丈夫。回復も必要ないと思うよ」

軽く頭を振ってからそう答えるティル。
そして、彼はすぐ傍まで近づいてきていたコウを見下ろした。

「君は?」
「え?」
「君は何もされてない?」

そう問われ、コウはあぁ、と納得したように声を発する。
それから、こくりと一度頷いた。

「私は飲んでいないから」
「そっか。毒だって気付いてから、知らせに行こうと思ったんだけど…」

無理だったみたいだね。
そう言って彼は苦笑を浮かべた。
なるほど。
彼がドアに近い位置に居たのは、そういう理由があったからなのか。
謎が解けたようにスッキリした様子のコウ。
それから、小さく微笑んだ。

「ありがとう」

毒だと気付いてすぐに、自分の事を考えてくれた彼。
そんな風に心配してくれる人が居るのは嬉しい事だ。
感情を隠さずに笑みを浮かべる彼女に、ティルは少しだけ頬を染めて視線を逸らした。

08.04.19