水面にたゆたう波紋
014
お帰りなさい、と出迎えられたのは、これで何度目だろうか。
その度に、コウは少し照れたように笑い、「ただいま帰りました」と答える。
コウにとって外出する機会など本当にないに等しく、そうして迎えられた記憶がないのだ。
そんな彼女の生い立ちを知っているオデッサは、出来る限り彼女の帰りにあわせて待つようにしていた。
「私には、身体の所為で思いっきり動けないなんて、想像も出来ない。
きっと…とても辛い思いをしてきたんだと思うの」
いつだったか、オデッサはフリックにそう告げた。
彼女の言葉にそうだな、と頷いたのを覚えている。
「お帰りなさいって迎えただけで、泣きそうに微笑むのよ。それを見て私の方が泣きそうになってしまったわ」
多少お酒の力もあったのだろう。
涙腺がやや緩くなってしまう事を隠そうと、オデッサは肘をついた手の上に額を乗せる。
そうすれば、向かいに座るフリックからは彼女の表情は見えなくなる。
「当たり前の幸せを知らないの。だから、それを教えてあげたい。…でも、出来ない時はあると思うの。
フリック…そんな時は、あなたが代わりにコウを迎えてあげてね」
「…あぁ、そうだな」
「ふふ…妹みたいに大事にしているんだもの。嫌とは言わないわよね」
クスクスと笑えば、彼は照れたように顔を背ける。
そんな反応をされてしまうと余計に笑いがこみ上げてくるのだが、彼はそれを分かっているのだろうか。
「お前もそうだろ?」
「そうね。…不思議な子…。そんなに長い付き合いじゃないのに、すっかり溶け込んでしまっているわ」
それが嫌だと思わないのも、不思議だ。
あのビクトールですら、偶にコウの修行に付き合ってあげているのを見る。
カリスマとは少し違うけれど、周囲を惹き付ける天性の才があるのだろう。
これから多くの人と出会い、そして多くの事を知っていく。
そんなコウの未来を想像し、オデッサは静かに微笑んだ。
「守備はどう?」
「上々」
ほら、とフリックが巻いたそれを差し出す。
コウが持つのを拒んだ、例の大事な設計図だ。
「ありがとう。後はこれを工場に届ければ、火炎槍が完成する」
大きな戦力だわ。
そう言ってオデッサは開いた設計図を見下ろした。
素人にはただの武器の設計図にしか見えないけれど、事細かな工夫が盛り込まれたそれ。
まだまだ烏合の衆でしかない解放軍にとって、これは希望の一つだ。
「戦力が拡大すれば、それに希望を見出す人達が増える…」
そうなれば、解放軍はもっと大きくなっていくだろう。
コウは呟きながらオデッサの様子を見つめた。
しかし、本当に彼女が解放軍を大きくし、いつかの未来には帝国を打ち滅ぼすことが出来るのだろうか。
こんな事を考えているとフリックにばれると、きっと怒られてしまう。
けれど…コウには、不安だった。
彼女の率いる解放軍の勝利―――そんなビジョンが浮かばないのだ。
「―――コウ?どうしたの?」
思考の世界にどっぷりと沈んでいたのだろう。
ハッと我に返ったときには、オデッサが不思議そうな表情で自分を覗きこんでいた。
何でもない、と言っても通用しないだろうけれど、そう答えておく。
納得はしていないようだったが、オデッサは、そう、と頷いた。
「旅で疲れたのかもしれないわ。もう休む?」
「…大丈夫です。話を続けましょう」
「…わかったわ。ええっと…そうね。秘密工場へ届ける方法だけれど…」
クルクルと設計図を丸めながら、オデッサはサンチェスの方を向いた。
頷いた彼は一歩踏み出し、懐から手紙を取り出す。
「サラディの村で設計図の受け渡しを行なう予定になっています」
「サラディ…少し遠いわね」
壁に掛けられている地図を見つめ、オデッサが呟く。
サラディはレナンカンプから北西に位置し、川を渡り、虎狼山を越えねばならない。
「一人で運ぶのは危険だわ。虎狼山と言えば、山賊が出るという話もあるし…」
「そうですね。ここで人員を削減するのは得策ではないでしょう」
「…そうね。山賊に設計図が渡ってしまっては元も子もないわ」
そう言って今回のメンバーを考えるオデッサ。
アジトのことも考えると、これが中々難しい選択になりそうだ。
眉間に皺を寄せて考え込む彼女の傍らで、コウがふと何かを探すように視線を彷徨わせた。
オデッサを見守っていたフリックは、コウの行動に気付くとその名を呼ぶ。
「どうかしたのか?」
「ティルが…」
答えるつもりで言ったわけではないのだが、自然と唇から零れていた。
は?と首を傾げるフリックを他所に、コウは椅子から立ち上がる。
そして、階段の方へと歩き出した。
ギギ、と独特の音が聞こえ、入り口となっている上の置時計が動かされた事を教えてくれる。
その後、数人分の足音がアジトへと近づいてきた。
「ティル」
先頭の人物を視界に捉え、コウが小さくその名を呼んだ。
右の手袋へと視線を落としていたティルが顔を上げる。
彼の方からもコウの姿を確認できたのか、小さく笑った。
「コウ。君も戻ってたんだね」
「うん。……えっと…お帰りなさい…?」
後ろに疑問符がついてしまったのは、ここが彼の帰る場所なのだろうかと言う迷いから。
小首を傾げつつそう言った彼女に、彼は軽く目を見開いた。
それから、その表情に笑みを浮かべる。
「ただいま」
彼は迷いなくそう答えてくれた。
その事実が嬉しくて、微笑みを浮かべるコウ。
そんな彼女に近づき、ティルは少し声を潜めた。
「身体は大丈夫?」
「うん、平気よ。この程度の期間なら離れていても大丈夫」
それでも、心なしか身体が軽いような気がする。
気のせいかもしれないし、彼が傍にいるお蔭なのかもしれない。
コウにとってはどちらでも良かった。
ティルは彼女の表情に偽りがない事を読み取ると、そっか、と頷く。
「ドワーフに会いに行ったんだって?」
「ええ」
「大丈夫だった?割と気性が荒いって聞いたんだけど…。僕も、実際に会った事はないんだ」
「思ったよりもいい対応だったわ。少し見下されていたような気はするけれど…」
「その程度で済んだなら、きっとマシだったんだよ。色々と話は聞くからね」
顔を合わせるなり話を始めてしまった二人。
オデッサはそんな彼らを見て、思わず笑みを零した。
コウの表情はとても穏やかで、それで居て自然だ。
彼女が王族の出身であると言うことは、その物腰やふとした時に垣間見える育ちの良さから十分に伺える。
最早疑うまでもないことだろう。
いつもは淑やかで、人の一歩後ろから物事を見つめているような彼女。
そんな彼女が、自然体で笑って話をしている。
それは、相手がティルだからなのだろう。
不思議な二人だと思った。
二人の間には、見えない繋がりがあるように思えてならない。
オデッサはその光景に小さく微笑んだ。
08.03.24