水面にたゆたう波紋
011
脱出口から出るのと同時に、階段を下りてくる音がした。
一人ではなく複数のその音と共に聞こえてくる、オデッサの声。
「―――――――」
何を言っているのかまでは分からなかったけれど、そこに彼女が居るというだけで十分だ。
その様子から帝国に見つかったわけではないと言う事は明らかで、コウは安堵の息を零す。
「オデッサ」
その名を呼んで、そちらに向かう事を教える。
声に気付いたらしいオデッサが「こっちに来て」と急かす様にそう言った。
彼女の声に誘われるようにして、コウは壁に隔てられたそこへと向かう。
一行から見える位置へと移動した彼女。
松明が一つ消えていたのか、少しだけ暗い足元を確認した視線を、その一行へと動かした。
視線を上げ、一番に目に入ったのは、見知ったオデッサ―――ではなかった。
「――――っ」
―――見付けた、見付けた。
紋章が酷く疼き、『彼』以外の全てが色を失う。
身体の中に流れる魔力が、彼女を形成する細胞の一つ一つが、歓喜に震えた。
「!コウ、あなた…」
驚いたようなオデッサの声も、彼女には届かない。
ボロボロと零れ落ちる涙は止まることを知らないようだった。
ただならぬ彼女の様子に、オデッサに続いていた一行は訳も分からずに困惑する。
その場の空気が止まったような沈黙の中、ただ一人だけゆっくりと動き出した者が居た。
「ぼ、坊ちゃん…?」
戸惑う付き人の声も届かない。
依然として涙を流し続けるコウは、その場から動かなかった。
そんな彼女に近づいた彼は、静かに伸ばした腕で彼女の体を抱き寄せる。
「―――やっと…会えた…」
「…うん。やっと…やっと、会えたね」
どちらともなくそう言って、互いの肩に額を寄せる。
会いたかった―――その思いだけを伝え合った。
当事者である二人以外は、その流れについていけない。
置いてけぼりを食らった面々の反応はそれぞれだった。
「一体何がどうなってるんだい、グレミオ―――…って、聞いても無駄そうだね」
クルリと彼の付き人である青年、グレミオを振り向いた女性、クレオは静かに溜め息を吐き出した。
グレミオは傍目に見ても分かるほどにはっきりと固まっている。
青くなるでもなく、また赤くなるのでもなく。
ただ、目を見開いたまま表情は愚か指先一つまで石のように固まっているのだ。
石化から解放されるまでは、まだ少し時間を要する事になるのだろう。
対する、解放軍のメンバーはと言うと。
「あら、まぁ…」
驚いたようではあったけれど、どこか嬉しそうな様子のオデッサ。
そんな彼女の傍らで、ビクトールはきょとんとした表情を見せていた。
「おい、オデッサ。コウの奴はどうしちまったんだ?」
「…ふふ。きっと、これが運命なのよ」
「はぁ?」
「さぁ、これからが大変ね。心配性の彼がこんな所を見たら―――」
「オデッサ。これなんだ、が―――」
噂をすれば、だ。
向こうからひょいと顔を覗かせたのは、今までアジトの奥で作業をしていたフリックだ。
階段を下りた広いスペースから動いていなかった一行を見つけるのは簡単だった。
そして、そんな一行の真ん中に見える光景もまた、いとも簡単に彼の視界へと飛び込んでくる。
言葉半ばでグレミオと同じように固まってしまったフリックに、オデッサとビクトールは顔を見合わせた。
その表情は、苦笑以外の何物でもない。
ピクリと肩を揺らし、彼の肩から額を離す。
ほんの少しの動きだったのだが、しっかりと抱きしめてくれていた彼に伝わるには十分すぎた。
「―――…落ち着いた?」
そんな優しい声が聞こえ、コウはそっと視線を持ち上げる。
まだ涙に濡れた目は、それでも確かに彼を映した。
「…ええ、ごめんなさい。急に…」
「ううん。大丈夫。落ち着いたなら、よかったよ」
そう言うと、彼はゆっくりと彼女の背中に回していた腕を解く。
向かい合うような姿勢のまま、どちらともなく手を絡ませる。
紋章が大きく脈打つのを感じた。
彼のほうもそれを感じたらしく、視線を合わせて小さく笑い合う。
「―――――…!コウ!何をしてるんだ!!」
「ぼぼぼぼ坊ちゃんっ!よそ様の娘さんに何て事を…!!」
二人の様子に、ハッと我に返るフリック。
彼が金縛りから解かれるのと同時に、グレミオも漸く石化から解放された。
一緒になって声を上げる二人に、コウと彼は一旦はそちらを見て、そしてもう一度顔を見合わせる。
「―――…こっち!」
グイッと強く腕を引いたのは、コウの方だった。
彼女は自分の左手で彼の右手を引っ張り、近くにあったドアへと駆け込む。
彼のほうも、それを拒む事もなくそれに続いた。
振り向いた彼女がすぐさまドアに鍵をかけてしまう。
ドンドンと木のドアを叩く音と、コウ、やら坊ちゃん、やらと自分達を呼ぶ彼らの声。
分厚いドアはそんな二人の行動を全く気にしていない様子で、しっかりと口を閉ざしている。
暫くの間それを見つめていた二人は、どちらともなく笑い出した。
「ごめんね、悪い奴じゃないんだけど…ちょっと、過保護なんだ」
「いいえ、こちらも同じようなものですから。いい人なんですけれど…ちょっと、心配性なんです」
互いに同じような言葉で答え合い、笑う。
一頻り笑ったところで、コウが椅子へと彼を促した。
この部屋はコウが勉強部屋として使わせてもらっている部屋だ。
荷物は置いてあるけれど、倉庫ほどにごちゃごちゃしているわけではない。
「えっと…本当なら、何か出すべきなんでしょうけれど…」
生憎、ここに置いてあるものと言えばおくすりのような道具系ばかり。
飲み物と呼べるものは存在せず、苦笑いを浮かべる彼女。
そんな彼女に、彼は首を振った。
「私はコウです。家名は…捨てました」
「僕はティルだよ。ティル…マクドール」
「ティルさんですね」
にこりと微笑んでコウが答えると、ティルは小さく首を振った。
何がいけなかったのかと首を傾げる彼女に、彼は苦笑を浮かべる。
「出来れば敬語はやめて欲しいな。それと…さん付けって言うのも」
「…わかったわ。ティル」
そう答え、コウの視線は自然と手の甲の紋章へと落ちる。
これ以上ないと言うほどに存在感を発しているそれに、あの消え失せそうだった儚さはない。
彼女の視線と同じ位置を辿ったティルの目が軽く細められた。
「…ソウルイーター…だね」
「うん」
コウの答えを聞き、ティルは自身の右手につけてあった手袋を脱いだ。
そこに現れたのは、コウの手の甲にあるのと同じ紋章。
やはり、彼が宿主だったのか―――疑惑が確信へと変わった。
「…長くなるけど…聞いてくれる?」
彼が宿主であるならば、全てを話しておかなければならないのだろう。
先ほどの、苦しいほどに強くこみ上げた感情が偽りだとは思えない。
間違いなく、この二つの紋章は繋がっているのだ。
「聞いてもいいなら…聞かせて欲しい」
強い意思を滲ませたその眼差しに、コウは「ありがとう」と微笑んだ。
08.03.03