水面にたゆたう波紋
010
お帰りなさい、と出迎えてくれたオデッサには申し訳ないけれど、コウは偽りの笑顔を貼り付けていた。
心中では、先ほどの一件が頭から離れずにグルグルと回っている。
荷物を置くついでに表情を見られないようさりげなく視線を外した彼女。
そんな彼女の頭に、ポスンと大きな手が降って来た。
「買出しご苦労さん。また随分と買ってきたなぁ」
「ビクトール!無事だったのね、良かった」
向こうの部屋から歩いてきたのだろう。
先ほどは見当たらなかったビクトールがコウの頭に手を乗せていた。
彼は彼女の手から箱を受け取り、荷物が置いてある倉庫へとそれを運んでくれる。
重くはなかったけれど、腕が少しばかり疲れを訴えてきていたのは事実。
ありがとう、とお礼を言いつつ、彼の後ろをちょこちょことついていく。
既にフリックが荷物を置きに来たようで、買ってきたばかりの箱が二つ、入り口付近に置いてあった。
「ビクトール、少し遅かったですね。何かあったんですか?」
「ん?あぁ…面白い奴を見つけてな。オデッサにあわせようと思ったんだ」
「…その人、大丈夫なんですか?」
面白いからといって信用してはいけないことを知っている。
やや表情を顰める彼女に、ビクトールは豪快な笑いを返した。
「俺の勘に間違いはない!あいつの眼が気に入った」
「……私の時には最後まで疑っていた人の台詞とも思えませんね、それ」
白けた目を向けてくる彼女に気づくと、彼は視線を逸らして頬を掻く。
そして、数秒躊躇ってから口を開いた。
「まぁ、何だ…。ほら、あれだ。………お前って言う前例があったから、素直に信じるつもりになったんだよ」
信じられないといった自分に、信じる必要はないといった少女。
同じくらいの年の娘よりも遥かに強い眼差しをした彼女は、自分の厳しい言葉にも涙ひとつ零さなかった。
己が無知であることを理解し、知らないと言うことに甘えようとはしないその姿勢。
彼女スパイかもしれないと疑った自分を情けないと思わせ、信じようと思わせた。
コウと言う前例があったからこそ、あの少年を信じてみようと思うことが出来たのだ。
「大した女だよ、お前は」
再び頭を撫でられたコウは、訳が分からずに疑問符を浮かべた。
「何だか、上が騒がしいことになっていますね」
ふと、何かを書いていたコウが顔を上げてそう呟いた。
何度も読み返した本は、既に表紙が草臥れてしまっている。
それを撫でるように閉じ、アジトと宿を繋ぐ階段の方へと目を向けるコウ。
「…本当ね、何かしら…」
「……ここが見つかった可能性もありますね」
コウはそう呟き、すぐ脇の壁に立てかけていた弓と共に置いていた短剣を引き寄せておく。
そして、視界の端でもう一つの出口を確認した。
敵が乗り込んできた時の事を考え、その脱出経路を頭の中に思い浮かべる。
「もしかすると、ビクトールの言っていた人たちかもしれないわ」
そう言うと、オデッサが椅子から立ち上がり、階段の方へと歩いていく。
彼女の行動にコウが驚いたようにその名を呼んだ。
「オデッサ!?」
「大丈夫。少し様子を見てくるだけだから」
彼女の言葉は、笑顔と共に紡がれたものだったが、それ以上有無を言わさぬ雰囲気があった。
思わず口を噤むコウに微笑みかけ、彼女が階段を一段ずつ上っていく。
それを見つめていたコウは、静かに溜め息を吐き出した。
そして、手元に寄せていた短剣を腰に挿して立ち上がり、もう一方の出口を確認すべく隣の部屋へと歩く。
一見すると普通の壁。
その前に立ち、それを撫でるように手を動かしていく。
肩の高さで横へと移動させ、次にそれを下へと動かす。
指先に触れる感触が変わったところで、ぐっとその手に力を入れた。
ガコン、と言う何かがずれる音がしたかと思えば、彼女の目の前に大人の1.5倍ほどの出口が出来上がった。
普段は全く使わない通路のため、埃や汚れが目立つ。
コウは軽く眉を顰めつつ、入り口の松明に向けて魔法を唱え、そこに火をともした。
真っ暗な入り口が彼女を飲み込まんとしている。
そこを1メートルほど入ったところに、もう一つ松明がある。
それは、そこに火をともすと通路の端を火が走り、通路が明るくなると言う仕組みだ。
今それを確かめてしまうと、新たに油を追加しなければならないのでやめておく。
その位置だけを確認し、威力を調整したファイアを掌に留め、明かり代わりにしてその通路を歩き出した。
途中、足元をネズミが走るような場所だが、要は外に抜けられれば問題はないのだ。
「空気が淀んでいて不愉快ね…」
埃っぽくじめじめとした空気は、あまり気分の良いものではない。
眉を顰めつつも、彼女は足早に通路を歩き、外へと通じる出口を押し開いた。
すでに夜のヴェールを被っている空には星が瞬いている。
レナンカンプの町から北へ100メートルほどの所にぽつんと立っている樹。
出口は、それのすぐ脇にあった。
夜ともなれば人が歩いている事もなく、少しばかり寂しげにそこに佇むそれを見上げるコウ。
そして、クルリとレナンカンプを振り向いた彼女は、そのまま軽く眉を寄せた。
「………松明が多い」
不夜城でもあるまいし、夜になってから人々が町中をウロウロと歩き回るのはおかしい。
それを考えると、揺れる松明を持っているのが誰なのかと言うのは、想像するに容易かった。
開けっ放しだった出口からもう一度その身を通路へと滑り込ませ、しっかりとそこを封鎖する。
そして、元来た道を急ぎ足で駆け出した。
いくらか走ったところで、コウはふと自分の身体の異変に気付く。
異変と言うと悪い意味に取ってしまいそうだが、そうではない。
「身体が軽い…?」
元の世界では常に鉛を飲み込んでいるような状況だったから分からなかったが、こちらに来て随分と楽だった。
しかし、今はそれの比ではない。
走り続けているのに息切れすらしない身体に、彼女は首を傾げた。
そして唐突に自身の手の甲を見下ろす。
そこに見えたのは、暗さに負ける事無くその存在を主張する紋章。
消えそうなほどに薄かったと言う名残はどこにもなく、爛々とその姿を現している。
「…紋章が…」
コウはそう呟き、レックナートとの遣り取りを思い出した。
紋章の力が弱まれば、コウの身体が蝕まれてしまう。
しかし、その力は傍に居れば補充する事が出来るのだと。
彼女はそう言っていた。
「…やっぱり、あそこに居たのは…」
ソウルイーターの宿主だったと言う自分の勘に間違いはなかったということだろう。
コウは身体の負担にならないと知るや否や、その速度を速める。
彼女の足を急がせたのは、オデッサへの心配か、それとも―――
08.03.01