水面にたゆたう波紋
009
「コウ。フリックと買い物に行ってきてくれる?いま少し手が離せないの」
そう言って顔を覗かせたオデッサ。
特にこれと言った何かをしていたわけではないコウは、二つ返事でそれを了承した。
読んでいた本を机に置き、彼女の元へと歩く。
「何を買ってくるの?私一人でもいいけれど…」
「駄目よ。女の子が重いものを持っちゃ。今の時間はフリックも空いているはずだから、連れて行くのよ」
いいわね?と確認しつつ、紙の切れ端に買い物リストを書き込んでいく。
特に種類が多いわけではなさそうだ。
これならば一人でも…と思うコウだが、彼女を怒らせると厄介だ。
リストが出来上がる前に彼を呼びに行った方がいいだろう。
そう判断し、コウは彼女に一声かけてからフリックを探しに出た。
レナンカンプの町はそう広くはない。
店を回りきるのに、そんなに多くの時間は必要なかった。
「次は何を買うんだ?」
「えっと…毒消しね」
「なら、道具屋に移動だな。量はどのくらいだ?」
5個程度か?と先ほどまでの買い物の荷物を腕に提げたフリックがそう尋ねてくる。
渡されたリストを眺め、コウが答えた。
「えっと…2箱」
「2…箱!?」
「そう言えば、前に在庫が切れたって言ってたわね」
予想外の量に、フリックが驚いたように声を上げた。
なるほど、この量を買うことになるならば、確かに彼の手伝いが必要だ。
あそこで断らなくて良かったと思う。
安堵するコウに対するように、フリックの脳内は忙しい。
今度は毒系のモンスターの巣にでも乗り込むつもりか?
オデッサの無茶は今に始まったことではなく、だからこそそんな考えまで浮かんできてしまう。
やや口元を引きつらせたフリックの背中を押して、コウは道具屋へと急いだ。
「まいどあり~」と言う声に見送られ、道具屋を出る二人。
フリックの腕に2箱、コウの腕に1箱。
予定よりもひとつ多いのは、何だか話が弾んでしまって店主に気に入られたコウのお蔭だ。
持てないからと断ったのだが、それならば運んでやろうとまで言ってくれたのだ。
とてもありがたい申し出なのだが、アジトまで運んでもらうわけにも行かない。
そこは丁重にお断りし、箱の方は仕方なく譲り受けることになった。
「…予定外に荷物が増えたな」
「…まぁ、あって困るものでもありませんから…」
「………。で、買い物はこれで全部か?」
「えっと…身代わり地蔵があれば、それもほしいと書いてありますけれど…」
レナンカンプの道具屋には身代わり地蔵は置いていない。
その事実に、二人は静かに安堵の溜め息をこぼす。
あんな嵩張るものを追加されたら困る。
二人の思いが一致した。
「…帰るか」
「ええ、そうですね」
そうして、アジトへと歩き出す二人。
すでに顔見知りとなっている宿の店主と少し言葉を交わし、二階へと向かう。
「あ、フリックさん」
思い出したように店主が彼を呼び止めた。
足を止めて振り向くと、店主がやや声を潜める。
「ビクトールさんが帰ってきていますよ」
彼がアジトを離れてすでに二週間。
漸く帰ってきたか、と思いつつ、店主に礼を述べる。
そして、ぎしぎしと煩い階段を上り、一際立派な一室へと入った。
「…無事、ですよね?」
「あいつに限って怪我なんかはしないだろ。殺しても死にそうにない奴だからな」
ハハッと笑って答えるフリックに迷いはない。
少しでも迷いがあれば、コウの心配がより膨らむことになっただろう。
「よく考えると…私、帝国がどんな相手なのか知らないわ」
コウがポツリとそう呟く。
フリックやオデッサから話は聞いているし、サンチェスも色々と教えてくれる。
しかし、どうしても彼らからの話というのは、解放軍寄りのものになってしまう。
段三者の目線ではなく、当事者の目線と言うのは、やはり公平ではないのだ。
それでいいのだろうか―――ふと、彼女の脳裏にそんな考えがよぎった。
「コウ?」
「なんでもないわ」
気にしないで、と微笑むと、彼は首を傾げつつも作業を再開する。
彼はいったん荷物を置き、部屋の中に設置された立派な置時計を操作していた。
コウはと言うと、閉じたドアに凭れ、その様子を眺めている。
窓から見える風景は既に夕暮れのそれへと変わっている。
差し込んでくる夕日に目を細めたところで、ガコン、と置時計が動いた。
その向こうに見えた、地下へと続く階段。
この先にあるのが、解放軍のアジトだ。
「よし、先に行ってくれ」
「ありがとう」
振り向いたフリックにそう声をかけ、荷物を抱えなおして薄暗い階段へと一歩目を踏み出す。
点々と明かりが用意されているが、石に囲まれたこの空間を明るくするには少し足りない。
再びガコン、と言う音がして、フリックが時計を戻しているのが分かった。
やがて部屋から差し込んでいた空気が完全に消え、暗さがより際立つ。
先に行こう、そう思った彼女が、階段を一段下りた。
「――――っ!!」
靴が一段をしっかりと踏んだところで、ざわりと全身がざわめく。
細胞一つ一つが歓喜に沸くような、そんな感覚にコウは勢いよく後ろを振り向いた。
「うわっ!急に振り向いたら危ないだろう!」
後ろにいたフリックは、二人の箱がぶつかりそうになってそう声を上げる。
しかし、彼の声など彼女には聞こえていない。
ただただ、先ほど塞がったばかりのそこを見つめる。
そんな彼女の様子に疑問を感じたのか、フリックがその表情を真剣なものにした。
「コウ?」
「……………何でも、ない…」
気のせいではない。
近くに、紋章の本体がいる。
それを宿している人がいる。
けれど、コウはその人に会うために駆け出すことが出来なかった。
ここは解放軍のアジトであり、誰にも知らせるわけには行かない場所。
もし宿主が帝国の人間だったら、解放軍は終わりだ。
ぐっと箱を抱く指先に力をいれ、入り口に背を向ける。
そして、一歩、また一歩とアジトへと歩き出した。
フリックは彼女の様子に疑問符を消さず、けれどその後に続くように動き出す。
階段の先を睨むように見つめていたコウは知らない。
彼女の手の甲に宿る紋章が、今までとは比べ物にならないほどに鮮明な姿を見せていることを。
08.02.27