水面にたゆたう波紋
007
レックナートの元で紋章術を学ばないと決まったコウ。
そんな彼女のために、レックナートはそれに関する文献を書庫から持ち出した。
「これを読んでおけば、ある程度の知識は得られるでしょう」
そう言って渡された5冊ほどのそれ。
冊数は少ないものの、その分厚さといったら半端ではない。
一冊が指三本分はあろうかと言うそれを受け取り、コウはしっかりとそれを抱えて礼を述べる。
返す必要はないと言われて少し悩むも、自分には必要なものだからとそれを受け入れた。
「では、帰りもルックに送ってもらってください。彼なら隣の部屋に居るでしょうから」
「わかりました。ありがとうございます。レックナート様」
そう言って頭を下げると、コウは本を腕に抱えたまま部屋を後にした。
そんな彼女を見送り、レックナートは呟く。
「どうか、彼女の進む道が暗闇に閉ざされないように…」
分厚い本を5冊抱えてのノックは、中々骨の折れる作業だった。
お蔭でコ、コンと何とも奇妙なノック音になってしまう。
数秒後、怪訝な表情と共に顔を出したのは、先ほどの少年だ。
「…話は終わったの?」
「ええ。それで…」
「レックナート様から聞いてる。元の場所に送ればいいんだろ?」
面倒だけど、と言う心が表情にありありと出ている。
申し訳なく思ったコウは、咄嗟に口を開いた。
「あの、私…一人でも大丈夫だと思います」
「へぇ…君はテレポートが使えるの?ここ、離れ小島になっているし、船なんかはないよ。
おまけに、あんたが居た村は、距離的に言えば歩いてひと月はかかる」
それでも自分で帰れるの?
無理ですと言う答え以外は言えないような視線と、畳み掛けるような言葉。
「…宜しくお願いします」
「ふん。わかればいいんだよ。面倒事はさっさと終わらせたいんだ」
「(…面倒事…まぁ、確かにそうなんだけれど…)」
こう言う人も居るんだなぁ、とどこか感心したかのような思いを抱くコウ。
今までは深窓の姫よろしく、城の上階で過ごしていた彼女の世界はそう広くはない。
況してや、彼女に会いにくるものと言えば身分の概念をしっかりと持っているものばかりだ。
こんなにもはっきりとした嫌味を言われる事はない。
それを新鮮だと感じている辺り、彼女の適応能力の高さがうかがえるというものだ。
「行くよ」
「はい。…あ」
「…何?」
彼の手がコウの手首を取った瞬間、彼女が声を零した。
まだ何かあるのか、と言いたげな彼の視線に、彼女は首を振る。
「ごめんなさい。ただ…風の気配を感じたので…」
「…魔術師が紋章を宿していないわけないだろ」
「ええ、そうですね。でも、あなたの紋章は少し違うような気がします」
何が、と聞き返されると答えかねてしまう。
より澄んだ、そして強い魔力の流れを感じた。
この強さは―――
「真の…風の紋章…?」
確信はないけれど、第六感がそう告げている。
不安交じりに紡がれたその言葉に、ルックが驚いたようにこちらを向いた。
その表情を見る限り、それがはずれだったと言う事はなさそうだ。
「真の紋章を宿しているんですね」
「…まさか、君に気付かれるとは思わなかったよ。感覚の方は悪くないらしいね」
ルックはそう言って溜め息を吐き出すと、彼女の手を解いた。
それから、その腕にある本の一冊を手にとって続ける。
「レックナート様も真の紋章を宿しているよ。…その顔だと、気付かなかったみたいだね」
「何となく、強い力は感じていたのですが…そうですか。あの感覚が、真の紋章のそれなんですね」
どうやら、触れた方がはっきりとそれを感覚として捉えることが出来るようだ。
尤も、同じ部屋に居て強い力を感じたと言う事は、ある意味ではそれで十分なのかもしれないけれど。
「この本、表紙が擦り切れるほど読みなよ。そうすれば、大抵の紋章の事は理解できる」
彼はそう言うと本を彼女の腕に戻し、それから改めて彼女の手を取る。
そして、彼女が何かを言う前に、紋章の力を発動させた。
ドスン、と何かの上に着地してしまった。
今まで運動と言った運動をしていなかったコウだが、運動神経はそう捨てたものではない。
フリックとの修行の間にその事実が判明している。
だが、流石の彼女とて、突然の出来事に対しては、その経験の浅さゆえに対応しかねるのだ。
そう、今の状況が、正しくそれだ。
「ご、ごごごごごめんなさいっ」
自分の状況を察してからの彼女の行動は早かった。
説明するならば、ルックの紋章により元の場所に飛ばされた彼女。
その、元の場所には、先客が居た。
「いや、大丈夫だ。お前に潰されたくらいでどうにかなるような柔な身体じゃねぇからな」
後ずさるようにして彼…ビクトールの上から退く彼女に対し、彼はそう答えた。
床にされたにも拘らず、それに関しては特に怒っているわけではない様だ。
よりによって彼の上に落ちるとは…送ってもらって失礼だが、少しばかりルックを恨みたくなる。
「それにしても…逃げたかと思ったぜ」
そう言って彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
そんな彼に、コウも先ほどまでの申し訳ないと言う表情を消す。
「信じてくれたフリックやオデッサを裏切るような真似はしません。
尤も、ビクトールさんにとってはその方が良かったのかもしれませんけれど」
彼らと運命を共にする覚悟を持って、帰って来たのだ。
ちゃんとした師の下で紋章を覚えるよりも、彼らの役に立ちたいと思った。
その想いが篭っていたのだろう。
ビクトールはコウの表情を見て、人知れず口角を持ち上げた。
「部屋の隅で震えてるような王女様じゃねぇらしいな。
ま、魔法の方はさっぱりだからな。そっちの方面は頑張ってくれや」
そう言うと、彼はポンポンとコウの頭を撫でる。
突然雰囲気の変わった彼に、彼女はその思考がついていかずに疑問符を重ねた。
「え、あ…はい」
「俺のことも呼び捨てで十分だぜ。ビクトールさんなんて、背中が痒くなる」
「分かりました―――ビクトール」
彼はコウから手を離し、床に転がったままだった椅子を起こす。
まだちゃんと理解は出来ていないけれど…少しずつ、考えが纏まり出していた。
「それから、初対面の時は怖がらせて悪かった。汚ねぇ仕事は俺の役目だからな」
苦笑に似た笑みを浮かべるビクトールの言葉。
それを聞いて、全てのピースが完全に揃った。
悪い人ではないと言うことくらいは、フリックやオデッサから聞いていて、知っていた。
けれど、コウ自身がそれを感じたのは今が初めてだ。
受け入れる者が居るならば、それを疑う者が居なければならない。
組織とは、そう言ったバランスが取れることにより、初めて成り立つものだ。
オデッサたちが後者になれないと言うならば、誰かがその代わりを務めなければならない。
それが、ビクトールだったと言うだけの話だ。
「ビクトール。私…ここに来たばかりで、きっと子供よりも知らない事が多いです」
「あぁ、そうだろうな」
「それでも…皆さんの役に立てるように頑張ります。絶対に…裏切りませんから」
まだ行動でそれを証明する事は出来ない。
言葉で伝える事しかできないのがもどかしいけれど、それしか方法はないのだ。
必死に自身の思いを伝えようとする彼女に、彼は小さく笑った。
「期待してるぜ」
そう答えて、彼はそのまま部屋のドアに向かって歩き出す。
そして、開いたままの状態で彼女を振り向いた。
「あー、そうそう。フリックは隣町までお前を探しに行ってるぞ、コウ」
「隣町まで…!?」
「あぁ。そんで、行ってる間に戻ってくるかもしれないからって留守を任されたのが俺ってわけだ」
一応伝えとくからな。
そういい残し、彼は自分の役目は終わったとばかりに部屋を後にした。
残ったコウは、腕に抱えたままだった本を机の上に置く。
それから、先ほどの遣り取りを思い出し、堪えきれずに微笑んだ。
「頑張らないと、ね」
期待を裏切ってしまわないように、足を引っ張ってしまわないように。
パン、と頬を叩くと、椅子に腰掛けて1冊目の本を手に取った。
08.02.19