水面にたゆたう波紋

006

漸く落ち着いたコウは、促されるままにレックナートと向き合うように腰を下ろした。

「私の事を覚えていますか?」

彼女にそう問われ、コウは首を傾げて記憶を探る。
そう言われると、初めて会った気がしない。
それは何故なのか…。
そう悩んだ所で、突然その理由に思い当たった。

「その声…」
「覚えてくれていたのですね」
「あなたが、私をこの世界に呼んだのですか?」

あちらの世界でずっと聞いていた声だ。
コウの疑問に、彼女は首を振った。

「私はあなたが別次元に誘われないよう、門を開いただけの事。あなたを呼んだのは、私ではありませんよ」
「では、別の要因があった…と言うことですか?」
「ええ、その通り」

レックナートは深く頷いた。
そして、コウの手の甲を見つめる。

「全ては、その紋章が望んだ事です」













「手を見せてくれますか?」

レックナートにそう言われ、コウは右手を差し出す。
彼女はじっと手の甲を見つめてから、次に左手を求めてきた。
求められるままにそれを差し出した彼女に対し、レックナートは何かに気づいたように表情を動かす。

「……この紋章のことをご存知ですか?」

コウは彼女にそう尋ねた。
暫しの沈黙を経て、レックナートは口を開く。

「この紋章は、生と死を司る紋章。ソウルイーターと呼ばれるものです」
「ソウル、イーター」

直訳すると、魂を食らう者。
それだけだとどうにも『生』の部分が生かされていないように感じるのだが、実際はどうなのだろうか。
この世界の常識に関しては無知と言っても差し障りないコウには、その判断が出来ない。

「しかし、この紋章は本体ではありません」
「え?」
「言ってしまえば…紋章の力の一部が、あなたに宿っているだけなのです」

彼女は、それを太陽によって出来た影のようなものだと説明した。
本体と同じ動きをし、同じ時間を過ごす―――本体なしには存在し得ない。
この紋章は、そう言うものなのだと彼女は告げた。

「紋章は…多少、使うことが出来るでしょう。本体ほどの威力はありません」
「あの、今一理解できないのですが…」
「―――初めから説明しなければいけませんね」

レックナートはそう呟き、コウの手を離した。
コウは自身の左手を引き寄せ、その手の甲を撫でる。
心なしか、日に日に薄くなってきているように感じるそれ。
しかし、魔力の流れは依然として止まることなくコウの中にある。

「あなたを死から救い出し、この世界での生を与えたのは、このソウルイーターに他なりません」
「この、紋章が…」
「本来ならば、このように紋章の一部が対象者の中に残ることはない。しかし…」

コウの手の甲には、確かにその存在がある。
レックナートは一旦言葉を途切れさせた。
頭の中で整理し、言葉を選んでいるようにも見える。

「ソウルイーターは、あなたを解放しなかった。自分なしには生きていけない存在にしてしまったのです」
「……自分なしに生きられない…」
「紋章が薄まってきているのはわかりますね?それは、ソウルイーターの力が弱まってきているからです」

じわりじわりと弱まっていくそれは、やがてはコウの肉体を蝕み始める。
その力が完全に消える時―――それが、コウの死ぬ時なのだと。
レックナートはそう説明した。

「どうすれば、力が回復するんですか?」
「ただ傍に居ればいいだけです」
「でも、一言に傍にと言っても…」
「どの程度の距離ならば許されるのかは、私にはわかりません」

ゆっくりと首を振ったレックナート。
コウはもう一度、ソウルイーターを撫でた。

「この世界で生きて生きたいならば、ソウルイーター…そして、それの宿主と出会わなければなりません」

見たところ、さほど時間は残されていないようだ。
フリックが随分と薄いと言っていた。
そう感じてしまうほどに、ソウルイーターの力が弱まっているのだろう。

「近い将来、あなたはその人と出会うことになります。けれど…運命は一つではありません」

一度の行動がその全てを狂わせると言うこともある。
コウは神妙な面持ちで口を噤んだ。














「コウ。あなたには素晴らしい魔力があります。ここで、紋章術を学びませんか?」
「レックナート様が?」
「私でも構いませんが…年齢も近いですし、ルックの方が適任でしょうね」

ルック、と言う初めて聞く名前に、コウは首を傾げて見せた。
そんな彼女の胸中を悟ったのか、レックナートはにこりと微笑む。

「あの子は名乗らなかったのですね。あなたをこの魔術師の島へと連れてきた子です」
「…彼はルックと言うのですか」

名乗らなかったし、自分も尋ねなかったので結局名前を知らないままだった。
レックナートから聞こうと思っていたことを、今更に思い出す。

「あなたの進む道には、困難が待ち受けています。紋章術は、きっとあなたの役に立つでしょう」
「でも、私はソウルイーターの宿主を探さなければならないんですよね?時間は…あまりないようですし」
「…ええ、その様ですね」

コウの手の甲にあるそれは、日増しに薄くなってきている。
魔力がなくなっているわけではないのだから、尽きる時には本当に突然尽きてしまうものなのかもしれない。
もしそうならば、一刻も早くソウルイーターを探さなければ。
いつ爆発するとも知れない爆弾を抱えている気分だった。
尤も、コウからすれば、それは今までの日常と何ら変わりはない。
今までも、彼女は病弱な身体でいつ起こるかもわからない発作の可能性に怯えていたのだ。
ソウルイーターと再会さえすれば命の期限が延びる。
そう分かっているだけでも、彼女にとっては十分な事だった。

「嬉しい申し出ですけれど、私は帰ります。
自分に何が出来るのかわかりません。けれど…信じてくれたオデッサたちの力になりたいんです」

自分が返せるものと言えば、それくらいしか思いつかない。
紋章術の勉強をすれば、彼らの役に立てるのだろう。
しかし、それにはきっと多くの時間を要してしまう。
彼女達が困っている時に手助けが出来ない場所に居るのでは、本末転倒だ。

それに―――

「魔術師の島で留まっているよりは、彼女達と行動した方が早く出会えるような気がします」

この身体に宿るその力が消えてしまう期限よりも早く。
確信はないけれど、コウはそう感じていた。
そんな彼女に、レックナートは薄く微笑む。

「あなたがそう決めたのなら、反対する必要もありません。
それに…あなたならば私が教えずとも、紋章を上手く使いこなせるでしょう」

自信を持っていていいのですよ。
そう言われ、彼女は安心したように破顔した。

08.02.17