水面にたゆたう波紋
005
「―――…これが紋章だ。わかったか?」
「はい。理解できました。要するに、私達の世界で言う魔法のようなものですね」
魔力を元としているところや、攻撃や治癒の効果があるところなどもよく似ている。
場合によっては人をサポートする補助系のものもあるのだから、同じと考えても差し障りはないだろう。
「あー…多分な。俺はお前の世界の魔法って奴をよく知らないから判断はできないが…」
コウがそう思ったなら、そうだろう。
フリックは手に持ったペンをクルリと回しながらそう言った。
ここ数日、こうして彼女と額をつき合わせて色々と教えている。
その間にわかった事なのだが、彼女は頭がいい。
自分よりも遥かに回転が良く、一を教えれば十ほども理解する。
それを言ってみた所、「外に出られない分勉強していた。その所為で勉強に慣れている」彼女はこう答えた。
だが、それだけではないと思う。
確かに学ぶと言う行為そのものに慣れていると言うもの一理ある。
しかし、それを差し引いても、彼女の将来は有望だ。
「俺なんかよりも他の人のところで学んだ方がいいと思うけどな…」
果てにはこんな事まで考えてしまうほどだ。
彼女よりも頭が悪いであろう自分が教えていても、彼女は一般常識よりも一・二歩進む程度だ。
学ぶべき者の元で学べば、もっと伸びるだろう。
それは、人手不足の解放軍にとっても有益となるはずだ。
「それにしても…一つ、疑問が残ります」
「どうした?」
「フリックの話を聞いていて、思ったんですけれど…私、紋章を宿しているんでしょうか」
「…どれ」
彼はそう言ってコウの手を取った。
まず、右手を確認する。
うむ、何の変哲もない、ごくごく普通の女性の手の甲がそこにある。
次いで、左手だ。
「ん?」
一見しただけでは見落としてしまいそうなほどに、薄く。
ほんのりとそれが見えた。
「紋章…か?」
そう呟き、自分の手の甲を見下ろす。
皮製の手袋を外し、その下の素肌には、はっきりと紋章が浮かんでいる。
宿していると分かるそれと比べても、彼女の左手のそれはあまりに薄い。
「紋章師が下手だったのか…?」
今まで見た事もない状況に、フリックは頭を捻った。
そんな彼と同じように、コウもきょとんと首を傾げる。
尤も、彼女の方は知識が乏しいために、悩んだ所で答えが出る筈もないのだが。
「…とりあえず、この紋章を知るのが先だな。えっと…この近くに紋章屋は…どこにあったかな」
地図を開くフリックの傍らで、彼女は自分の手を見下ろした。
いつの間に紋章を宿していたのかは分からない。
この世界に来たときから、既にこの魔力を感じていた。
自分を守護してくれているような、そんな包み込まれるような優しい流れだ。
「よし、とりあえず隣町に行くか。あそこなら確か…」
「その必要はないよ」
不意に、第三者の声がその場に聞こえた。
コウとフリックは顔を見合わせる。
お互い、自分の声ではないと主張するように首を振ったところで、部屋の中に突如として光が生まれた。
初めは一筋だったそれが、球を描き、やがて薄くなっていく。
完全に消えたかと思えば、そこに居たのはまだ少年だ。
その線の細さや服装からして、恐らくは魔術師の類だろう。
突然現れた事からしても、彼が魔法…いや、紋章を使える事は確かだ。
「君がコウだね?」
「え、あ…はい」
「レックナート様の命令だからね。借りていくよ」
そう言うと、彼はコウの手を強く引っ張り、自分の方へと引き寄せた。
椅子に座っていた彼女は不本意ながらもその力に従ってしまう。
「おい、ちょっと待てよ!」
慌てたフリックがそう呼び止めるも、時は既に遅い。
彼と彼女を中心に光が集まったかと思えば、それは瞬く間に球を描いた。
そして、先ほど同様に光が消えた時には、その場に二人の姿はない。
「…どうなってるんだ!」
あいつは誰だ、と声を上げても、答えてくれる者は居ない。
一人ポツリと残された彼は、とりあえず部屋を飛び出した。
一時的な浮遊感と共に、視界が白に埋め尽くされる。
この世界に来たときと似た現象に、コウは自然と緊張していなかった。
光が収まってから目を開くと、そこは先ほどまで見ていた風景とは全く異なっている。
「どこ?」
「魔術師の島。この隣の部屋にレックナート様が居るから、会いにいきなよ」
「え、あの…」
会いに行きなよ、と言われても、まずレックナートと言う人物がどんな人なのかを知らない。
そもそも、この少年の言う事に従っていいのかすらもわからないのだ。
困惑した様子のコウに、彼は面倒くさそうに溜め息を吐き出した。
「あんたの疑問に答えられる人が隣の部屋であんたを待ってる。
他に質問したければ、会ってからにしてよ。折角連れて来たのにサボったと思われるの、困るんだよね」
一息にそこまで言うと、彼は自分の役目は終わったとばかりに椅子に座ってしまう。
よく見れば、どこか生活感のある部屋だ。
恐らく、彼の自室なのだろう。
何となくだが、空気が彼と一緒だと思った。
少しだけ考えるようにその場に佇んでいたコウだが、意を決したのかその部屋を出て行く。
ドアを開いて潜って、そしてそれを閉じてから、彼の名前を聞いていないことに気付いた。
「…今戻るのも変よね」
変、と言うよりは、恐らく彼を怒らせてしまうだろう。
そう思ったコウは、先にレックナートと言う人に会おうと決める。
そして、ひんやりとした石造りの廊下を進んだ。
彼の部屋を出て、一つ目の大きめの扉。
その前で一旦足を止め、周囲にそれらしい扉が見当たらない事を確認する。
ここで間違いないだろうと思うと、それをゆっくりと押し開いた。
「ようこそ、異世界の王女」
そこに居たのは、不思議な空気を纏った女性だった。
儚く、それなのに、どこか強い存在感を持った人。
コウは自然と言葉を失っていた。
「コウ、と呼んでも構いませんか?」
それとも、コウ王女とお呼びした方が?と尋ねられ、コウはハッと我に返る。
「コウで構いません。ここでの私は王女でも何でもありませんから」
「そうですか。卑下する必要はありませんよ、コウ。あなたがあの世界で王女であったと言う事は夢物語ではありません」
あなたは確かにあの世界に存在して、自分の精一杯を生きていたのですから。
レックナートにそう言われ、コウの目からポロリと涙が零れ落ちた。
頬を伝ったそれが、重力に従って床へと落ちていく。
「世界を渡るというのは、決して生易しいものではありません。とても、不安だったでしょう?」
今まで生きていた世界とは全く違う世界へと放り出された自分。
過去の世界が、本当に存在していたのか―――それを確かめる術すらないのだ。
今までの事が全て夢だったのでは…そう思ってしまう自分も居た事を、コウは否定できなかった。
だからこそ、彼女の言葉が胸を焦がす。
誰かに理解して欲しかった。
―――不安だった。
「ありがとう、ございます…っ」
お礼を言う事ではないのかもしれないけれど、そう言わずにはいられなかった。
レックナートは何を言うでもなく、ただ微笑んでコウの心が静まるのを待つ。
08.02.13