水面にたゆたう波紋
004
オデッサたちと顔を合わせたのは、昼過ぎだった。
そこからは解放軍の事やこの世界の事。
それこそ、子供でも知っているような常識的なことも、フリックは丁寧に教えてくれた。
何と言うか、丁寧な人だ。
一度はやると決めた事、最後まできちんとやり遂げると言う信念があるのだろう。
時間は瞬く間に過ぎた。
夜が世界を支配する時間が訪れて既に数時間。
仮宿として使っている町外れの家の中は、シンと静まり返っている。
きっと、他のメンバーは寝静まっているのだろう。
コウはオデッサの部屋に余っていたベッドを借りていた。
城の中にあった自分の部屋よりも遥かに狭く、質素な室内。
根っからのお姫様であったならば、発狂してしまいそうな光景だったのかもしれない。
けれど、彼女は生粋の姫でありながら、少し違った感覚の持ち主だった。
元々は早くに幕を下ろすはずだった人生―――そう思っているからこそ、どんな事でも気にならない。
寧ろ、折角得た命だ。
様々なことを知りたいという欲求ばかりが先に立ち、既に姫としての感覚が薄れつつあるくらいである。
だが、慣れないベッドが寝にくい事だけは、どうしようもなかった。
「(色々とあったし…仕方ないのかもしれないわね)」
心の整理が出来たと思っていても、身体にはまだまだ時間が必要なのだろう。
極力音を立てないようにして、コウはベッドを抜け出した。
数歩歩くとギシッと床が鳴る。
思わずギクリと足を止め、周囲を窺ってから再び歩き出す。
そんな風にして、やたらと時間をかけて外に出る事に成功した。
寝静まった町に人の影はない。
家の裏へと周り、手頃な木の箱を見つけてその上に腰を下ろした。
そして、ゆっくりと空を見上げる。
こんなにも美しい満天の星空を見た事はない。
きっと、ベランダに出れば見る事は出来たのだろう。
しかし、夜風は身体に良くないと言ってガラス越しにしかそれを眺められなかった。
「綺麗…」
自分の知る世界はあまりに狭く、それ故に小さなことでも感動は一入だ。
思わず零れ落ちた声は、その感動をより深く表しているようだった。
とりあえず肩に引っ掛けてきた上着をかけなおし、飽く事もなく夜空を仰ぎ続ける。
「眠れないの?」
どのくらい集中していたのだろうか。
近づいてきた人の気配にすら気付かなかった。
突然声を掛けられ、ビクリと肩を揺らして振り向く。
そこには、眠ったと思っていたオデッサが居た。
「オデッサさん」
「オデッサでいいわ。これからは仲間なんだから。それより…ねぇ、夜の星空は同じ?」
信じてくれているからこそ、こんな質問が出るのだろう。
オデッサの言葉に、コウは今一度星空を仰ぐ。
「いいえ。こっちの方がずっと美しいです。私は…窓から見える限られた星空しかしりませんから」
何物にも制限される事のない空は広く、星空は美しい。
コウの言葉にオデッサは微笑んだ。
「そう」と頷いた彼女とコウとの間に、暫し沈黙が下りる。
「私は…」
ふと、コウがそう切り出した。
「私も、ビクトールさんと同じ考えです」
「…と言うと?」
「あなたは…少しばかり、優しすぎる。人を信じすぎてはいけないと思います」
信じてもらった者の言葉ではありませんね。
そう言って苦笑を浮かべるコウ。
けれど、リーダーとして生きていくならば、オデッサには避けては通れない道のはず。
「それでも、人を信じられなくなるのは、とても怖いわ。それでは、前に進めなくなってしまう」
「…解放軍なんて、本当は向いていないんでしょうね。オデッサは、平和の中で笑っている方が似合っています」
「そうね。この時代がそれを許してはくれないけど…。自分でも向いていないと思うわ。
私よりもずっと強い力で皆を率いてくれる人がいるなら、すぐにでも任せてしまいたい」
リーダーなのに、こんな事を考えるのは間違っているだろう。
けれど、向いていないと思うのは否めない事実だ。
「フリックさんは?」
「あの人は駄目よ。青で統一しているけれど、それに反するように熱い人だから。
それに…女性や子供に優しすぎるわ。私が妬けるくらいにね」
クスリと笑いながらそう言ったオデッサ。
コウは、はた、と動きを止めた。
「ごめんなさい。私…」
「ふふ…冗談よ。彼がそう言う優しい人だって分かっているわ。気にしていないもの」
「……………でも、大丈夫ですよ。私には…探している人が居ますから」
「探している?」
不思議そうに首を傾げるオデッサに、彼女はコクリと頷いた。
「ただ漠然と、求めている人が居る…そんな気がします」
根拠を求められても、答える事は出来そうに無い。
何がそう思わせるのかも分からない。
「…不思議ね。コウが言うと、本当にそうなんじゃないかって思うわ」
「自分でも不思議に思います」
「会えるといいわね、その人に」
微塵も疑う事無く、彼女はそう言って笑った。
本当に、優しい人だ。
こんな風に、彼女が剣を取る必要がどこにあったのか―――現実を悲しんでしまいそうなほどに、優しい。
「会えたら紹介してね。コウの運命の人…見てみたいわ」
「運命の人って…」
「あら、そうでしょう?心が求めている人なんだから、出会えたらきっと運命だわ」
オデッサは素敵ね、と笑った。
「…さぁ、明日も早いわ。そろそろ寝た方が良さそうね」
月も随分と傾いてしまった。
その事に気付いていたけれど、この穏やかな時間が心地よくて気付いていない振りをしていただけだ。
オデッサの言葉に、コウは苦笑いを浮かべた。
「オデッサは先に戻っていてください。私も、すぐに戻りますから」
「本当に?」
「ええ」
念を押すように「すぐに戻るのよ」と繰り返して、オデッサは家の中へと戻っていく。
それを見送ってから、コウははぁ、と息を吐いた。
「“会いたい、逢いたい”…か」
自分ではない何かがそう求めているようにも感じる。
果たして、この感情が自分のものなのか―――時々、分からなくなってくるのだ。
「会えるのかしら…そんな人に」
頼りない呟きを聞いていたのは、空に瞬いていた星だけ。
08.02.07