水面にたゆたう波紋
002
さわさわとぬるい風が吹く。
頬を撫でていくそれに、コウは薄っすらと目を開いた。
視界に映ったのは、落ちんばかりの一面の空。
思わず目を見開いたまま動きを止めてしまった。
窓に切り取られることもなく、その雄大さを見せている真っ青な空は、彼女がずっと望んでいたものだ。
涙を流してしまいそうなほどの感動は、この空の下で生きている人たちにはわからないものだろう。
外に出られなかった彼女にとっては、これほどに世界の大きさを感じたことはなかった。
一頻りそれに感動したところで、コウはふと我に返る。
あの時、真っ白な世界に包まれて―――そのあと、気が付いたら大空の下だ。
何が起こったというのだろうか。
彼女はそこで漸く自分が寝転がっているのだと気づき、その身体を起こす。
そんな動作の中で、彼女は再度驚いたように目を見開いた。
掌の下で押しつぶしてしまったそれは、草だ。
どう言った名前のものかはわからないけれど…見たところ、さほど気候の高くはない草原に生息する種類。
部屋から出られなかった彼女は、様々な本を読んでその知識だけを蓄えていた。
経験の点から言えば、彼女は他の者よりも遥かに劣る。
しかし、その知識で言えば国の賢者に次ぐほどであったと言っておこう。
「どうして…この種類は、国では生息しないはずなのに…」
プチッとそれを千切りとり、繁々と見下ろす。
自分の知るそれとは少し違っているけれど、やはりあの種類に間違いはない。
コウはそれから視線を外し、周囲を見回した。
360度、見渡す限りの草原。
そんな中に、彼女はただ一人ぽつんと存在していた。
「死後の世界は…思ったより綺麗なところなのね」
自分だけがあの世界から消えてしまった。
そう結論付けた彼女は、ここが死後の世界だと思っていた。
あの時、自分は確かに発作を起こし、死を意識したのだから。
不意に、ガサッと左の方の草が揺れた。
何だろう、と視線を向けると、草の合間からウサギが顔を出す。
だが、そのウサギは普通ではなかった。
「………穏やかじゃない…わね」
ギラリと輝いているのは、ウサギが握っている刃物。
何故ウサギがものを握れるのかは、この際問題ではない。
明らかに臨戦態勢であるウサギ(刃物付き)が自分を睨みつけていることが問題なのだ。
「――――っ!!」
ウサギがそれを振り上げる。
逃げると言う選択肢は彼女の中にはなかった。
身体の弱かった彼女は、少しの運動でも身体の負担になってしまう。
そんな生活を送っていたからこそ、動くと言うこと自体に臆病になってしまったのだ。
息を呑み、反射的に目を閉じる。
ブンッと重いものが風を切る音が耳に届いた。
いくらか時間が経過し、いつまでも痛みや衝撃が伝わってこないことに疑問を抱く。
ゆっくりと時間をかけて目を開けば、そこに見えたのは青。
空の青とは違い、鮮やかなそれは、何かの布らしいと言うことがわかった。
コウにとっては、割合と近い存在でもある。
風に翻るその青いマントに、父の背中が重なった。
キンッと鯉口を鳴らす音が聞こえ、はっと我に返る。
その青いマントの持ち主が振り向いた。
「怪我はないか?」
何を問われているのかわからなかったが、それも3秒ほどのこと。
言葉を発することが出来ずにただ頷くコウに、マントの主…若い青年は安心したように表情を緩めた。
「あの…助けていただいてありがとうございました」
「いや、それは別に構わないんだが…どこから来たんだ?
女一人でこんなところに居たら、モンスターに襲ってくれと言ってるようなものだ」
よく見なくてもわかるが、随分と青で統一した人だ。
マントと同じ青色のバンダナの裾が風に揺れるのを見ながら、そんなことを考える。
そして、彼の質問の答えを探した。
どこから…その質問に対する答えは、コウの中にはない。
「タイクーン…をご存知ではありませんか…?」
「タイクーン?さぁな…結構色々なところを回ったけど、そんな地名は聞いたことがない」
既に、ここが死後の世界だなんて馬鹿な考えは捨てている。
未だにそれを信じるほどに、彼女は現実から目を逸らしてはいないのだ。
何より、自分の身体が酷く軽いこともその証拠だろう。
原因はわからないけれど、彼女は今までよりも遥かに健康な身体を持ち、自分の見知らぬ所にいる。
それが国なのか、世界なのかはわからないけれど。
「タイクーンという所から来たのか?」
「あ…はい」
「どうやって来たのかは………その顔だと、わからないみたいだな」
普通、どうやってここに辿りついたのかわからない人間は居ないだろう。
しかし、彼はそれについては不審に思っていないようだ。
と言うことは、ここにも魔法が存在するのだろうか。
「タイクーンか…。俺は知らないけど、もしかすると仲間の誰かが知っているかもしれないな」
「仲間、ですか」
「ああ。困ってるなら紹介するけど…どうする?って言っても、こんな所に丸腰の女を一人で放り出して行けないか」
そう言って苦笑すると、彼は座り込んだままの彼女に視線を合わせるように膝をついた。
随分と昔に、城の騎士に同じように膝をつかれたことを思い出す。
見習いの騎士が正式に城の騎士として認められたあの時。
体調の良かったコウが式へと参加し、父の代役を務めたことがあった。
その時のことを、ぼんやりと思い出す。
騎士のように磨きぬかれた白銀の鎧を纏っているわけではなく、どちらかと言うと旅の剣士という出で立ちだ。
膝をつく姿も決まっているとは言いがたいけれど、何故か不信感は拭い去られる。
実に不思議な感覚だった。
「この近くに、仲間が待っている町があるんだ。そこまで案内してやるよ」
「…そうですね。お願いします。ご迷惑をおかけしますけれど…」
「気にするなって。困ってる時は助け合うのが当然だろ?」
ニッと笑った彼は、立ち上がって彼女に手を差し出す。
その手を見て、彼女はまるでお手本のように綺麗な動きでその手を取り、立ち上がった。
「俺の名前はフリック」
「私は…」
自分も名乗ろうと口を開いたところで、草の中からモンスターが飛び出してきた。
フリックは既に剣をしまっていて、即座に対応するもほんの僅かな隙が出来る。
咄嗟に彼女を背後に庇い、油断していた自分に舌を打った。
「ファイガ!」
そんな声が背中から聞こえたかと思えば、迫っていたモンスターが一瞬のうちに燃え上がる。
フリックは突然の出来事に目を見開いて動きを止めた。
鞘から抜き始めていた剣は、半ばまでその身を見せたまま、不自然に止まっている。
「良かった…魔法は使えるのね」
「今のは……その、君が?」
「え?ええ。魔法を使っただけですから…そんなに不思議なものではないと思いますけれど…」
ファイア系の魔法は、そんなにも珍しい魔法ではないはずだ。
何を驚いているのかわからず、彼女は首を傾げる。
「紋章を宿していたのか。丸腰じゃなかったんだな」
「紋章…?」
「ああ。よく考えれば、紋章の魔力を感じるな」
彼が何を言っているのかはわからないけれど、あえて質問したりはしなかった。
だが、これではっきりしたのかもしれない。
知らない国ではない…ここは、知らない世界だ。
魔法の存在がなく、紋章と言うコウの知らない存在が一般に普及している世界。
「そう言えば、まだ君の名前を聞いてなかったな」
「…コウです」
「コウか。年は…14くらいか?」
フリックの何気ない一言に、場の空気が止まった。
失言だっただろうかと感じるには十分な沈黙。
彼が改めて何かを言おうとするが、それよりも先に彼女が口を開く。
「今年16になります。生まれつき病弱で…」
「そ、そうか…悪かったな」
「別に、そんなに気にしていませんから、大丈夫ですよ」
2年も幼く見えるのか、と少し驚いてしまっただけだ。
だが、彼はそれが本心だとは思わなかったらしい。
申し訳ないことをした、と頭を下げてくる彼に、コウは苦笑を浮かべる。
「お仲間の所に案内してくれるなら、それで十分ですから」
いつまでも頭を下げ続けそうな彼を、早く行きましょう、と急かす。
そうして、二人は草原を歩き出した。
08.02.04