水面にたゆたう波紋
001
それは、運命だったのだろうか。
関わりあうはずのなかった二人が、ひとつの紋章によって繋がった。
コウ!と勢いよく部屋のドアが開かれた。
「はい、お父様。どうかなさいましたか?」
気丈にも感情を押さえ込み、彼女は柔らかく微笑んで見せた。
そんな彼女に、飛び込んできた父親は安堵したように息を吐いてみせる。
「お前の部屋から大きな物音がしたと聞いて心臓が止まるかと思ったぞ。どこも大事無いな?」
「ええ。何も。大丈夫ですよ、お父様。レディが壁を蹴ってしまった音です」
「そうか。何もなかったならばいいのだが…レイディール、コウに何かあればすぐに知らせてくれ」
頼んだぞ、という彼に答えるように、飛竜レイディールが鳴き声をあげる。
それに安心したのか、父親は部屋を出て行った。
バタン、と重いドアが閉じ、室内は彼女とレイディールだけになる。
心配しすぎるだろう、と思う時もあるけれど、仕方がない。
コウは病弱で、20まで生きられないと言われていた。
室内から出ることが出来ない彼女は、そのたっての願いで、飛竜が翼を休めるに十分なベランダを作ってもらった。
そして、そこに面する位置にベッドを配置してある。
ベッドから出ずとも、飛竜の傍に居られるように。
毎日顔を合わせる医師は、決して悪くなっているとは言わない。
けれど、自分の身体のことだ。
もう長くはないと言うことを、彼女自身も理解していた。
「ねぇ、レディ…一度でいいから、外の世界を知りたいな…。全身で風を感じて、自分の足で旅をして…。
そうして、お父様やお母様みたいに、狂おしいほどに誰かを愛してみたい」
窓枠に切り取られた空ではなく、視界いっぱいのそれを体感したい。
無理だとわかっているからこそ、その願いばかりが色濃くなっていく。
レイディールは申し訳なさそうに頬を摺り寄せた。
「ごめんね、レディ。生まれたときから一緒だったあなたをおいて逝くことになる。
私が居なくなったら、妹達を守ってあげて?」
近い将来、この鼓動が止まってしまう事を何となく理解していた。
一週間後までもつのか、明日までの命なのか。
正確なところはわからないけれど、きっと次の満月を見る事は出来ない。
自分の身体のことなのだから、自分自身が一番よくわかっていた。
レイディールの頬から手を離すと、コウは柔らかいシーツの上に横たわる。
開け放たれた窓からは優しい風が吹き込んできていた。
―――コウ。
「また…誰かが呼んでる気がする…」
この所、時折こんな風に誰かの声が聞こえる。
初めこそ気のせいだと思っていたけれど、最近はより鮮明になってきていた。
不思議と、警戒してしまうようなものではなく…寧ろ、受け入れてしまいそうに心地よい。
この国を守護する風のように、包み込んでくれるような優しい声だ。
「この声の主は、死後の世界の使者かしらね?」
クスリと笑い、目を伏せる。
だが、次の瞬間その穏やかな空気は一変した。
「――――っ!!」
ズキンと胸が痛み、呼吸が出来なくなる。
焼け付くような痛みに、コウはベッドの上で身を縮めて胸元を掻き寄せた。
その只ならぬ様子に気付いたレイディールがけたたましい鳴き声を上げ、尾で何度も城の壁を打つ。
「――、――――っ」
息ができない。
視界がかすむ。
―――あぁ、これが最期か。
頭の冷静な部分が、呆気ないものだなと思う。
「お姉様!!」
緋色の髪が一瞬だけ見えたけれど、それもすぐに霞んでしまった。
代わりに、鮮明すぎるほどにはっきりと見えたのは―――輝きを発する死神。
―――あなたが生を望むなら…
おぼろげに聞こえたあの声。
震える手を死神に向かって伸ばしていく。
指先がそれに触れたところで、世界が真っ白に変化した。
竜の叫び声を聞きつけた少女は、最上階の姉の部屋へと駆け込んできた。
目に映ったのは、苦しげに胸元を掻き寄せる姉の姿。
即座に発作だと気付くと、彼女は手にした薬を握り締めてベッドへと駆け寄る。
「お姉様!!しっかりして、お姉様っ!!医者を、早くっ!!」
姉の肩に手をかけて身体を起こそうとするも、苦しさからか思うようには動いてくれない。
寧ろ、より身体を縮めてしまう彼女。
少女は目に涙を溜め、緋色の髪を振り乱してドアの外へと叫ぶ。
「お願い、誰か…!!」
誰でもいいから、姉を助けて欲しい。
病弱だった姉は、自分と一緒に遊んだりは出来なかった。
けれど、その代わりに幼い頃から部屋の中で本を読み聞かせてくれた。
物語を紡ぐ姉の声はとても綺麗で優しくて、少女の憧れだった。
「お姉様…っ」
不意に、胸を掻き抱いていた姉の手が何かを求めるように動いた。
ゆっくりと伸ばされるそれをしっかりと包み、只管に姉を呼ぶ。
「お姉さ―――」
キィン、と激しい耳鳴りのような音が響く。
一瞬聴覚が麻痺し、同時に視界が白に埋め尽くされた。
それにあわせるように、手の中の感触が消える。
視界が回復した時には、姉とその飛竜の姿はどこにもなかった。
「お姉、様…。レディ…?」
まるでその二つの存在は初めからなかったもののように、忽然と世界に置き去りにされている。
呆然とベッドの上に座り込む彼女の耳に、バタバタと慌しい足音が近づいてきた。
「コウ!」
部屋に飛び込んできたのは、父である王と、国が誇る賢者。
室内の様子を見て、彼らはその表情に影を落とした。
「遅かったか…」
「お父様…、お姉様が…」
「あぁ、知っている。コウが生まれたときから予言されていた事だ…」
声のトーンを落とし、彼はそう言った。
そして少女の元まで歩いてくると、そっとその肩に手を置く。
「よくお聞き。お前の姉様は、どこか遠い所に行ってしまったんだ」
「…死んでしまったの?」
「いいや、生きているよ。でも、もう二度と会う事はないだろう」
「どうして?」
生きているのに、どうして会えないの。
涙に濡れた頬に、新たな雫が伝う。
王はその様子に心を痛めながらも、その予言の内容を口にした。
「姉様は生きる為に、違う世界の理を受け入れた。その世界に組み込まれてしまったんだ」
「…わからない」
「お前にはまだ少し難しい…いつか、わかる時に話してあげよう」
「…うん。わからないけれど…お姉様は、生きているのね?」
「あぁ、生きているよ」
「悲しいけれど…でも、生きていてくれるなら」
ごしごしと頬の涙を拭い、少女は唇を噛み締めた。
もう会えないけれど、それでも生きていてくれるなら。
死んでしまって会えないよりも、ずっと幸せな事なのだ。
「さぁ、顔を洗いにいこう。皆にも教えてあげなければ」
「うん」
父に促され、少女はベッドを降りた。
先に部屋を出て行く二人に続き、ドアの所まで歩く。
そして、もう一度主を失った部屋を振り向いた。
「さよなら、コウお姉様…」
―――さよなら、レナ。
聞こえない筈の声が聞こえた気がした。
08.02.03