君恋
Season 01:君に恋をした

逃げ続ける事は出来ないとわかっていたはずだ。
いずれ、終わりにしなければならない関係。
その時期を後れさせていたのは、他ならぬ紅自身だ。
いつまでもこのままではいられないと理解しながらも、彼と顔を合わせる事に怯えていた。

自然消滅を望めるほど、後腐れのない気楽な性格だったらよかった。
ない物を強請ったところで状況は何一つ好転してくれないのだけれど。









最近、隣の家の犬がよく吠えているのを耳にする。
別に煩いと言うわけではないし、犬が嫌いと言うわけでもないからあまり気にしていなかった。
普段はあまり鳴かない大人しい子だから、少しだけ気になったと言うのも事実。
まさか、こういう形で原因を目の当たりにするとは思わなかったけれど。

「…時間、取ってくれるよね?」

学校への通学路、家を出て一つ目の角を曲がった死角に、彼がいた。
驚きで逃げる事を忘れた紅の手を掴み、拒絶を許さない彼…水上彰。

「学校、あるから…」
「うん。知ってる。だから…サボってって頼んでるんだよ」

その言葉に、断らせるつもりなんてないくせに、と思う。
けれどそれを声には出さず、かと言って頷くことも出来ずに沈黙した。
その時間に焦れたのか、彰は問答無用で彼女の腕を引いて歩き出す。
グイッと自分を引っ張る強い力に、紅は俯いていた顔を上げ、無意識に口を開いた。

「…あ…っ水上、さん…!」

彰、と呼ぼうとして、呼び名を改める。
紅にとってはけじめだったのだが、彰はそれを別の意味で捉えたようだ。
ぴたりと足を止め、振り向いた彼の目はどこまでも冷たい。
紅と付き合っていた時には見せなかった目。
ゾクリと背筋が逆立つのを感じ、自然と身体が緊張する。
そんな紅の変化に気付いたのか、短く溜め息を吐き出した。

「彰」
「………」
「彰。そう呼ぶように…俺、言ったよね?」
「………あ、きら…」

小さく、途切れ途切れに紡がれた名前に、彼は冷たい目を消した。
そして、いつも見せていた笑顔を浮かべ、よくできましたと紅の頭を撫でる。
手の平が触れる直前、彼女が首を竦めた事に、気付かない振りをした。

「駄目だよ。俺たちは…まだ終わってない」

その言葉を聞いて、紅は別の声を思い出した。

―――戻りたいと思えば思う程、お前を追い詰めて…過去すらも、失ってる。

憐れに思える、と言った恭介の言葉。
終わりにしたと思っていた紅と、終わっていないと言う彰。
お互いの解釈にズレが生じて、今に至っている。
これを解決するのは時間ではないのだと悟った。

「彰…ちゃんと話しがしたい」

紅は俯くのをやめて、真っ直ぐに彼の目を見つめる。
自分の心が、最早彼の元には戻れないのだと気付いていた。
始まりかけていた恋心には、数週間前に終止符を打ってしまっていたから。

「…うん、いいよ。あの公園にでも行く?それとも…人目を気にせず話せるところがいいかな」
「………公園」

人目がない個室に入る勇気はない。
付き合っている間でさえ、二人きりの空間にはとても緊張してしまっていたから。
公園を選ぶ事を予想していたのか、彼は小さく笑って紅の手首から手を離した。
そして、改めて彼女の手を握る。
その手を見つめ、紅はそっと瞼を伏せる。
これが最後かもしれないと…感じていたのは、自分だけではない気がした。
















寝坊で学校に遅刻するなんて、何年ぶりの事か。
それもこれも、全部目覚まし時計が壊れたからと言って夜中に勝手に人の時計を盗んでいった姉の所為だ。
もちろん、本人は至って平然と「借りただけよ」と言った。
朝から怒鳴る気力もなく、既に遅刻だからと朝食をのんびり食べて家を出発したのは10時過ぎ。
学校までの道の脇にある公園。
目の端に移った何かを理解しようと視線を動かした恭介は、そこに見えた光景に思わず走り出した。
その反動で耳に添えていたヘッドフォンがずるりと首筋へと落ちたけれど、そんなのはどうでもいい。

「雪耶!!」

二人の間に入り込み、紅を背に庇う。
当たり前のようにそれを実行できる彼は、まるでヒーローのようだった。
突然滑り込んできた赤に、紅は驚いたように目を見開く。

「御子柴、くん…」

そう呼んだ声は震えていたけれど、先日のような恐怖に染まった声ではなかった。
その事に安堵しつつ、恭介は彰を睨む。
しかし、彼の方は恭介の方は見ておらず、紅の手を離した自身のそれを、じっと見下ろしていた。
そして、ギュッと指を握りこみ、恭介の後ろにいる紅を見る。

「俺が言いたい事はさっきので全部だ」
「………うん」
「来週、もう一度だけ時間をくれ。そこで…決めよう」

先日の殺伐とした空気とは、どこか違うものを感じた恭介は、口を挟まず黙っていた。
もしかすると、紅を彰の前に立たせておくべきだったのだろうかと考える。
咄嗟に身体が動いたと言っても過言ではなかった状況だったから、何も考えていなかった。
さて、どうすべきか。
そう考えた恭介だが、くん、と服の裾を引かれる感覚に、意識の方向を変える。
視線を動かした先で、頼りなく自分の制服を握る紅の手が見えた。
心なしか震えているように見えるそれに、自分の立ち位置が間違っていない事を悟る。
紅のその行動に気付いたのは恭介だけではなく、その目が一瞬、哀しみに揺らいだ事に、二人は気付かなかった。

「紅。俺は…まだ、紅の事が好きだから。やり直せるならやり直したい。そのためなら、何度でも謝る」
「………っ…」
「だから、来週…」
「…わかった、から…」

それ以上聞きたくなかったのか、彰の声を遮った紅。
その返事を聞いて、ありがとう、と呟いた彰は、最後に恭介を一瞥してから二人に背を向けた。
彼の背中が遠ざかり、やがて住宅街へと消える。

「…大丈夫、か?」

紅の手を解かず、少しだけ向きを変えて彼女を見下ろす。
俯いていた紅だが、小さく一度、頷いた。

「ごめんね。それと…ありがとう」
「いや、別に…」
「何があったのかは…上手く話せないかな。自分でもグルグルしてて、よくわからないの」

恭介は、頭を上げた紅の表情に恐怖の色がないと知り、とりあえずは、と肩の力を抜く。
自分が関わるべき問題ではないのだろう。
それはわかっているつもりだが、もう既に、他人事ではない所まで関わってしまっているような気がした。
それに、何より―――悲しげな笑顔と、縋るように握る彼女の手を、放っておけないと思う。

「…学校、どうすんだ?」
「………今日は、無理かなぁ…」
「そっか」

そうだろうな、と言う言葉を飲み込む恭介。
少しだけ悩んだ彼は、ん、と紅に手を差し出した。
ボクシングの所為で武骨になってしまった手は、あまり好きじゃない。
彼女の白くて柔らかい手を握るに相応しくないのかもしれない。
けれど、根拠も何もなく、彼女にはそれが必要だと感じた。
手を差し出された紅はそれと恭介を交互に見て、やがてそっと、自身のそれを重ねる。
恐る恐る、けれどしっかりと重なったそれは、恭介の感じたものが間違いではないと証明していた。

「ゲーセン、行った事あるか?」
「え?あんまり…」
「そっか。なら、行こうぜ。っと…制服はまずいよな。お前ん家、親は?」
「ん、と…もう仕事で誰もいないかな」
「なら丁度いいな。一旦家によって、アーケードに行くか」

そう言って、歩き出す彼。
慌てて自分も一歩、二歩と進んだところで、あれ、と気付く。
手を繋いでいるのに、歩幅にも差があるはずなのに、全く引っ張られていると感じない。
恭介の心遣いは、紅にとっては新鮮で、それでいてとても…涙が零れそうなほどに優しかった。

11.03.27