君恋
Season 01:君に恋をした

「あ」
「ん?ああ…おはよ」

開いたままの教室の扉を入ろうとしたところで、出てくる生徒と鉢合わせ。
お互いに気付いたのでぶつかることはなかったけれど、相手の顔を見たところで声が零れた。

「うん。…おはよう、御子柴くん」

そう言えば、クラスメイトだったんだ、と思い出す。
休日に会って、しかも私事に巻き込んでしまった側としては何とも肩身が狭い。
何となく視線を逃がそうとした紅に、恭介が声をかける。

「あれから、大丈夫か?」
「え?」
「ほら、家とか…日曜があっただろ」

明日菜さんのお店に行ったのが土曜日だったから、あれから丸一日以上経っている。
空白の日曜日を心配してくれたらしい彼に、紅は小さく笑った。

「家は…知ってるけど、きっと来ないよ」
「そう、なのか?」
「彼、あまり動物が好きじゃないの。ほら、私の家の隣、犬を飼っているでしょう?」
「…や、あんまり覚えてねぇけど…」

思い出そうとする恭介だが、あの時は色々と考えていたので隣の家のことまで記憶にないようだ。
言葉を濁す彼に対し、紅は気にした様子もなく続ける。

「犬の方も何となくわかるんだろうね。あんまり、彼のこと好きじゃなくて…すごく吠えるから」

前にそんなことがあったのだろう。
紅は思い出すようにクスリと笑い、それから寂しげな表情を見せた。
そんな彼女の表情を見て、恭介はその思い出が少なからず彼女を傷付けているのだと知る。
そして、姉の言葉を思い出した。

―――紅ちゃんは、今どき珍しいくらい真っ直ぐな子なの。
―――だから、口で何と言ってようと…本気で相手と向き合おうとしてたんだと思う。


好きだったのかもわからないと、紅は言った。
けれど、明日菜は、彼女は本気で向き合おうとしていただろうと言っている。
きっと、どちらも本当なのだ。
付き合う以上は、真剣であろうとしていたけれど…結局、自分の心を理解するところまで進めなかった。
紅の恋は、中途半端な状態で放り出されてしまったのだ。

「…あの、御子柴くん?」

ぼんやりと考えていたところに、彼女が控えめに声をかけた。
我に返った恭介は、悪い、と彼女に視線を戻す。

「何だった?」
「え?いや…通るんなら、どうぞって…」

言っただけだけど、と彼女の言葉が窄んでいく。
扉のところで鉢合わせたのだから、恭介が教室を出ていこうとしていたことは考えるまでもなく気付く。
道を譲ってくれていた彼女に礼を告げて、彼は廊下に出た。
紅は彼の横をすり抜けて教室に入る。
いや、入ろうとした。

「雪耶」

腕を掴んで引き止められた紅は、きょとんとした様子で彼を見上げた。
まだ、何かあっただろうか。
大人しく彼の言葉を待つ。



一方、恭介は引き止めた自分に驚いていた。
すり抜けた彼女に、半ば反射的に手を伸ばしてしまったのだが…自分の行動がよくわからない。

「…悪い」
「別にいいけど…どうかした?」
「いや、何でもねぇ」

取り繕う事も誤魔化す事も出来ず、彼女を解放する。
紅は少しだけ首を傾げてから、くすくすと笑った。

「変なの。御子柴くんって、そう言う人だったんだ?」
「違ぇって!これは、その…ちょっと、色々あったんだよ」

自分でもよくわからないのだから、説明などできるはずもなく。
説得力のない言葉を重ねれば、彼女はより一層楽しげに笑った。
そして、あとでね、と言い残して自分の席へと向かう。
おはよー、と仲の良いクラスメイトに声をかけられ、返事をしながら席に着いた。
カバンを置いている間に、彼女の席にはいつものメンバーが集まる。
そんな様子を見ていた恭介だが、自分の用事を思い出して廊下を歩き出した。
ふと、足を進めつつ自分の手を見下ろす。

「…細い、な」

抱き上げた時にも思ったけれど、彼女は細い。
彼女は、姉によってイメージを崩されるよりも遥か昔、何となく抱いていた女性のイメージそのままだ。
ガラガラと音を立てて崩れていたはずのイメージが、彼女によって修復されてきている気がする。
ぐっと手を握り、肌に残る感触を忘れるように、一歩を強く踏んだ。









「ねぇ、紅。一体どうしたの?」
「おはよう。何が?」

友人に声をかけられ、首を傾げる。
すると彼女らは、御子柴よ!と声を潜めつつ強く言った。

「何を話してたのかまでは聞こえなかったけど、すごく仲良さそうだったじゃん!」
「土日に一体何があったの!?」

何となく、答えるまで解放してもらえない気がした。
苦笑を浮かべた紅は、さてどこまで話したものか…と考える。

「実は、私がお世話になってる美容師さんが、御子柴くんのお姉さんだったの。土曜日に発覚したんだけど」

そう言う繋がりかな、と答える。
間違ってはいないけれど、彼女らは持ち前の“女の勘”と言う奴で、それが全てではないと気付いた。
こう言う時の女は中々どうして恐い存在なのだ。

「でも、あんな風に仲良くなっちゃったら、彼氏が妬くんじゃないの?」

一人が楽しげにそう言った。
彼氏、と言う言葉にぎくりと身を強張らせる。
何度か学校まで来ていたし、知っていても不思議ではない。
何となくそう言う話は避けていたから、彼氏の話をしたわけではなかったけれど。

「…ううん、大丈夫。…別れたから」

この手の噂は驚くべき速度で広がるから、少し悩んだけれど、別れたと言う事実は伝えておくべきだと思った。
紅の言葉に、友人たちは揃いも揃ってぽかんとした表情を浮かべる。

「別れた!?」
「何で!?」
「っていうか、すごく大事にされてなかったっけ!?別れる要素がないじゃん!」

彼女らの興奮はすごい。
一気に詰め寄られた紅が、思わず仰け反ってしまったほどだ。

「んー…色々とあって」

瞼を伏せて、神妙な面持ちで一言。
答えになっていないのは明らかだけれど、この表情で事情があるのだと言う事は伝わっただろう。
彼女らは何かに気付いたように身を引き、口々に「ごめん」と謝罪を述べた。
女子高生らしい一面を持っているだけで、根は優しい子たちなのだ。
その配慮に素直に感謝し、紅はそれ以上何も言わなかった。












午前中の授業が終わって、昼休みを挟んで午後の授業。
何事もなく一日が過ぎ、放課後になった。
部活に所属しているわけでもない紅は、そのまま帰り支度を整えている。

「雪耶」

朝以来の声に、紅は持っていた教科書をそのままに顔を上げた。
そこには神妙な表情をした恭介が立っている。

「御子柴くん?」
「あれ」

恭介はそのままの表情で顎を動かし、窓から見える校門を指した。
HRを終えてある程度の時間が経っているので、校門に向かう生徒は少なくない。
その中で、他校の制服と言うのは思う以上に見つけやすいものだ。
恭介が何を教えようとしていたのか、それに気付くと、紅はギュッと教科書を握る。

「…やっぱ、アイツか?」

校舎と校門の距離は遠く、彼自身も確証はなかった。
しかし、紅の反応により、間違いないのだと確信する。
気付いたのは本当に偶然だった。
帰り支度を終え、カバンを持ち上げたところで何気なく校門を見たのだ。
そこに、見覚えのある姿を見つけ、すぐに記憶の人物と結びついたのは、今日一日色々と考えていたから。

「もう…本当に、私にどうしてほしいんだろうね?」

紅は小さく笑う。
それは、誤魔化すような笑顔ではあったけれど、今の彼女の不安を覆い隠せていない。
教科書を握る指先は、白くなるほど力が込められていた。

「………早く準備しろ」

恭介にそう促された紅は、うん、と小さく頷き、持っていた教科書をカバンに詰めた。
持ち帰る荷物を片付けるのに、さほど時間はかからない。
カバンのチャックでそれを仕上げると、紅は深く溜め息を吐き出した。
まるで、戦地へ赴くような気の重さだ。
もちろん、そんな体験はしたことがないけれど。

「来いよ」
「え?」

閉じた瞼を開いたところで、タイミングよく声をかけられる。
顔を上げた紅の目に、歩き出す恭介の背中が映った。
数歩進んだところで紅がそのままだと気付いた彼は、首だけを振り向かせる。

「あのままじゃ帰れねぇんだろ?」
「…ん」
「じゃあ、黙ってついて来いよ」

そう言われ、紅はどうしようかと悩んだ。
けれど、やはり彼と対峙する勇気は持てず―――縋る気持ちで恭介の後を追う。
生徒用玄関で靴を履きかえると、恭介は校門に向かうことなく別方向へと歩き出した。
進む先に気付くと、紅は思わず声をかける。

「裏門?」
「あぁ。正門で待ち伏せてるなら、裏に回ればいいだろ」
「でも、裏門って…」

紅の記憶が正しければ、裏門は殆ど教師用となっていて、普段はチェーンがかけられている。
それを伝えるかどうかを躊躇っている間に、二人は校門へと辿り着いた。
やはり、門にはチェーンがかかっているようだ。

「御子柴くん、裏門って…」

紅がそう声をかけるも、彼は止まることなくそのチェーンの所まで歩き、ものの数秒でそれを開けてしまった。
チェーンを止める南京錠は、番号式のようだ。

「ほら、通れよ。また閉めとかなくちゃなんねぇんだからよ」
「う、うん。っていうか、何で番号を知ってるの?」

二人分ほど開けてくれた門を通り、外に出てから再びチェーンをかける彼に問いかける。
ガチャン、と最後の音がして振り向いた彼は小さく肩を竦めた。

「新任の先生に伝えてるのを聞いた」
「………」

さほど重要度の高い番号ではないとは言え、先生たちの防犯意識に不安を抱くのも無理からぬことだろう。

「ほら、行くぞ」
「あの…もうここで十分だけど?」

そう言うと、恭介は苦虫をかみつぶしたような表情で、呻くように言った。

「……………姉ちゃんが煩いんだよ」
「…あぁ…何て言うか…ごめん」

それ以上何も言えない紅だった。

10.12.19