君恋
Season 01:君に恋をした
「…私には、未練とか…ない、と思うの。そもそも、彼のことが好きだったのかもよくわからない」
温かいコーヒーを口元に添えて、紅はそう呟いた。
じゃあ何で付き合ったんだ?と問われ、彼女は困ったような表情を浮かべる。
「あまりにも熱心だったから…かな。告白は、覚えているだけでも三回」
初めての時は、初対面だったから断った。
二度目は、そう言うつもりはないからと断った。
そして、三度目。
まだ何も知らないと断ろうとした紅に、これから知ってくれればいいと言った。
根負けしたと言っても過言ではない状況で、紅は頷いた。
「三…それって、相当お前に惚れてたんじゃねぇのか?」
「…うん、そうかもしれない。付き合ってた頃は、大事にしてくれていたと…思う」
駅二つも離れている学校から、何度も迎えに来てくれた。
メールも鬱陶しいほどではなかったけれど、頻繁に送ってくれて、偶には電話もあって。
少なくとも、ごく普通の付き合いだったと思う。
「じゃあ、なんで別れたんだ?」
「向こうが浮気した。たぶん、飽きたんじゃないかな…」
付き合っている途中にも何となく感じていたことだけれど、精神面が成熟した人だった。
とても、一つ離れているだけとは思わないほど、彼は大人だったのだ。
高校生の付き合いは、彼にとっては恋人ごっこだったのかもしれない。
「私は別に、嫌いじゃなかったけど…浮気をするってことはそう言うことなんだと思う。
だから、別れようって言ったら―――そこからかな、何だか、変に拗れたみたい」
「アイツがそれを拒んでストーカーかよ?性質が悪ぃ…」
「…そう言うことする人だとは思わなかったんだけど…あんまり良くない人との付き合いもあるみたい」
良くない、どころか、悪い噂を何度か耳にした。
元々、優しい笑顔の裏で何を考えているのかわからない人だったけれど、最近は更に酷くなっている。
もう、彼が何を考えているのか、何をしたいのか…さっぱりわからない。
「飽きたから浮気するんじゃないの?男の人ってよくわからないわ。…どう思う?」
「どうって…俺に聞かれてもな…。俺は…基本的に、浮気とかそう言うのは馬鹿らしいと思うし」
「…一途なんだね。うん、そうあるべきだと思うし…やっぱり、そうであって欲しい、よね」
盲目的に恋していたわけではないけれど、それでも少なからず想っていた。
だからこそ、浮気なんてしてほしくなかったし、するならばもう彼とは一緒にいられない。
解放してあげると言う気持ちよりは、解放してほしいと言う気持ちの方が大きかった。
「そういや、アイツ…名前は?」
「水上彰。隣町の第二高校の2年」
「二高の水上…?」
どこかで聞いた名前だ。
それがどこだったのかを思い出せないけれど、少なくとも良い印象のある名前ではない。
しかし、いくら悩んでもそれを思い出せそうにはなく、仕方ない、と溜め息を吐き出す。
「それで?お前はこれからどうするんだ?」
「…どうしようかな。話をしようにも、相手は全然冷静じゃないし…」
「そうなのか?少なくとも、見た目だけならストーカーには見えなかった」
お前が怖がってなかったら、な。
あの時の彰の様子を思い浮かべ、そう呟く。
そんな恭介に、紅は緩く頭を振った。
「見た目だけ。笑顔の裏では何を考えているのか…想像するだけで、怖いわ」
そう答えた紅の顔は軽く蒼褪めていて、彼女の言葉が嘘ではないとわかる。
「もう…どうして別れてくれないのかしら」
「そりゃ…お前に惚れてるからやり直したいんだろ?」
「じゃあ、どうして浮気するの?…本当に、男の人も恋愛も…よくわからない」
考えていると、頭が痛くなりそうだ。
人の感情は複雑すぎて、あれこれと考えると前に進めなくなってしまう。
「…ごめんね。こんなこと、御子柴くんに聞かせるべきことじゃなかったね」
「いや、別にいいけどよ、それくらい」
「たぶん、誰かに聞いてほしかったんだと思う」
「誰かって…姉ちゃんは?」
「ここまで詳しく話してないよ。だって…明日菜さんに全部話すと、直談判してしまいそうで」
苦笑した紅に、あぁ、と納得。
常連客以上の繋がりがあるのかは知らないけれど、姉のことをよく理解していると思った。
あの姉なら、確実にやる。
話を聞くだけで大人しくしているような性格ではない。
「それだけは絶対駄目。彰は…容赦ないから。自分の手は汚さないけど、人を使う」
「おいおい…なんか、話を聞いてるとそいつって相当やばくないか?」
恭介がそう言うのも無理はない。
紅は小さく頷いた。
そんな彼女を見て、なんでこんな大人しい性格の彼女がそんな奴に捕まったのかと疑問に思う。
そう言う相手が執着する要素が見つからない。
「…と言うことだから…御子柴くんも、これっきりにしてね。あの人に関わると、きっと碌なことにならないわ」
そう言ってコーヒーを空にすると、紅はカバンを持って立ち上がった。
冷やしていた目元はまだ少し熱を持っていたけれど、見た目は随分マシになっている。
「じゃあ、帰るね」
お邪魔しました、と頭を下げた彼女。
思わずそのまま立ち去ろうとした彼女の腕を掴み、引き止めた。
「…送ってく」
「………あのさ、さっきの私の話、聞いてた?」
図らずも呆れたような口調になってしまう。
真面目に聞いていたなら、こんな流れにはならないはずだ。
しかし、恭介は真剣な表情で首を振った。
「こんな時間に女を一人で帰らせるわけにはいかねぇだろ」
「そうじゃなくて、彰のこと。ただでさえ名前を憶えられてるんだし…これ以上はやめて」
「聞いてた限りじゃ、相当お前に執着してるんだろ。なら、名前を憶えられただけでも手遅れじゃねぇの?」
そんなことはない―――とは言えなかった。
沈黙する紅に、恭介は壁にかかった上着を片手に、テーブルの上の二つのマグカップを持つ。
「ほら、行くぞ」
「…御子柴くん、強引だって言われない?」
「初めて言われたな」
そう笑った恭介を見て、考えているのが馬鹿らしくなってきた。
本当は巻き込みたくないけれど…彼の言うように、手遅れかもしれない。
彼が良いと言うならば、素直にその厚意に甘えてみようと思った。
「ごめんね」
「それ」
「え?」
「姉貴に聞かせたら、そうじゃない!って怒られるぜ?」
恭介の言葉に、脳内で明日菜が「そうじゃないでしょ」と人差し指を突き付けてきた。
こう言う時はごめんじゃなくて―――
「…ありがとう?」
「何で疑問形なんだよ」
ははっと小さく笑った彼に、この言葉が正解なのだと知る。
同時に、その笑顔を見て、肩の力が抜けるのを感じた。
一人じゃない、頼れる人がいる。
それが、どれほど幸せなことなのか―――紅は今、それを知った。
玄関へと繋がる廊下に紅を残し、マグカップを置きにキッチンへと向かった彼。
彼のいない間に消えることは出来るけれど、紅はそれをしなかった。
「…ありがとう」
きっと聞こえない謝罪は、今度また改めて伝えよう。
聞こえないと知っても今、言いたいと思った。
10.11.13