君と歩いた軌跡  009

呼び出したわけではなかった。
彼、流川楓がここにやってきたのは、本当に偶然。
けれど、その偶然を利用しない手はないと思った。
それと同時に、自分の声が彼を呼び止めていた。
一世一代の告白劇を演じるつもりはない。
この時間は、これから続く人生のひと時に過ぎないのだと、どこか冷めた自分がいた。

「ねぇ、流川くん」

屋上は誰かのものではない。
誰がいても不思議ではないと思っているのか、彼は自分がそこにいることに、これと言った反応は見せない。
しかし、まさか呼び止められるとは思っていなかったようだ。
やや眠たそうな視線が紅へと向けられた。

「バスケット部の流川くんでしょう?来年度の部長最有力候補」

それがどうした、と言いたげな視線。
何も言わないのは、単に相手にするのが面倒だからだろうか。
ここで臆してしまう女子も多いのだろうな、と思う。

「私と付き合ってくれない?」
「興味ねー」

これには即答で、思わず笑みが零れてしまう。
彼との会話はこれが初めて。
でも、彼のことはよく見ていた。
こんな人なんだろうなぁと想像していた通りの反応に、自然と笑みが浮かんでしまうのだ。

「…だろうね。君の頭の中、バスケットと睡眠欲の一色みたいだから」
「………わかってるなら、何で聞いた?」

流川がそう質問を投げかけてくる。
どうやら、彼の興味を引くことには成功したようだ。
紅はフェンスに凭れかかって、屋上のコンクリートに座り込む。

「バスケの時間を減らしてほしいとは思わないの。
ただ…それ以外の時間を、少しだけ共有できたらいいかなって…そう思っただけ」

相手にとってはそれが迷惑なことだとわかっている。
けれど、口が勝手に彼を呼び止めていた。

「…」
「人気あるから、こう言う事って多いんでしょう?彼女がいた方が君にとってもいいかなと思ったんだけど」
「その方が面倒だろ」
「そう?君がそう思うなら…そうなのかな。誰かと付き合ってしまえば、少なくなると思うけど…」

後半部分は、どこか頼りなく尻すぼみだ。
言っているうちに、確かに付き合う方が面倒かもしれないと言う気分になってきた。
それなら、彼がここで頷く理由などない。

「お前、名前は?」
「あ…ごめん。雪耶。雪耶紅。名乗るのを忘れてたのね」

こちらが知っているからと言って、向こうが自分を知っているわけがない。
彼にとっては、自分はその他大勢の一人なのだ。

「……………」
「…な、何?」

じっと見つめてくる流川に、紅はそう尋ねた。
まさか、目を開いたまま寝てしまっているのだろうかと不安になる。

「…どっかで見た顔だな」
「………あのね、同じ学校の同級生。見た顔で当然だと思うわよ」

ポツリと彼の唇を零れ落ちた言葉に、思わず呆れた声を返してしまう。
他校生ならまだしも、自分は彼と同じクラスだ。
ここで初めて見る顔だ、と言われる方が困る。
それでも納得していない様子の彼は、相変わらず紅の顔をじっと見つめる。
眠すぎて頭がおかしくなってしまっているのだろうか。
そんな事を考えていると、突然の突風が紅の髪をばさばさと乱した。
迷惑な…と思いつつ、それを纏め上げて少し高めの位置でくくってしまう。
その一連の動作を見ていた流川が、何かを思い出したように「あ」と声を上げた。

「体育館の女」
「は?」

思わず間の抜けた声を零す。
しかし、彼はそんな彼女の疑問を解消してくれるつもりはないようだ。
自己満足してしまったのか、その話題は終わったと言う空気すら感じさせる。
先ほどから会話が成り立っていないと感じるのは、きっと紅だけなのだろう。

「お前、バスケできるよな」
「うん。一応」
「手伝いも出来るか?」
「え…選手してたし、パスくらいは出せると思うけど…」

それが何?と首を傾げた。

「放課後の自主練、付き合えるか?」
「うん。別に構わないよ」
「それから、バスケの邪魔はすんな」
「うん」
「あと、他の奴に言うなよ。面倒だからな」
「…うん?」

何か、話が不思議な方向に流れている。
思わず疑問符のついた声を零した紅に、流川は「何だよ」と視線で問う。

「他の奴に言うなって…付き合ってる事?」
「そうだろ」
「…付き合うの?」
「お前から言い出したんだろ」

そう言うと、彼はふぁ、と一際大きく欠伸をした。
そして、ごろんと屋上のコンクリートに横たわってしまう。
日差しであたためられたそこへと寝転がって、僅か1分。
聞こえてきた寝息に、紅は漸く金縛りから解放された。
そのままその場で脱力する。

「…予想外に会話が難しいんだけど、この人…」

自分のことをじっと見てきたかと思えば何かに納得して。
そこからはトントン拍子に話が進み、紅が理解する前に交際が決定していた。
確かにこちらから言い出したことなのだが…そもそも、彼は断るつもりだったのではないのか。
疑問は次から次へと浮かんでくる。

「とりあえず…付き合ってることは公言しちゃいけなくて、バスケの邪魔も禁止。
練習に付き合えるから、彼にはメリットになった…って事?」

よくわからないけれど。
腑に落ちない点はあるけれど、彼の行動全てに納得できるまでは相当の時間と努力を要するのだろう。
とりあえず、今は先ほどの条件を守ることだけを心がけることにしよう。















「紅~?目を開けたまま寝てるの?」

ふと、彩子の声が届いた。
その様子からして、随分と長い間呼ばれていたことに気付かなかったようだ。
紅は彼女の言葉に、まさか、と苦笑する。

「さ、そろそろ部活に行きましょうよ、彩子先輩」
「…そうね。時間はゆっくりあるんだし、この先はまた今度聞くことにするわ」

そう言うと、彼女は先に行くと言って更衣室を出て行く。
一人になった紅は、はぁ、と溜め息を吐き出した。

あんな風に始まった関係が、まさか高校生になった今でも続いているとは思わなかった。
正直なところ、自分でも信じられないのだが。
普通の恋人たちを見ていると、少しだけ物悲しくなる。
好きと言ったこともなければ、言われたこともない。
普通ではない関係なのだと、否応なしに気付かされてしまう。

「…わがままなのよね…傍に居られるんだから、それで満足しないといけないのに」

自嘲の笑みを零し、紅は考えを捨て去るようにぱんっと頬を叩いた。

08.06.18