君と歩いた軌跡  008

翌日の放課後。
紅は更衣室に入るなり、彩子によって捕獲された。
しっかり部活用の服装に着替えている彼女は、ニヤニヤと笑みを浮かべている。
しかも、表情から察するに―――逃げられそうにない。

「見たわよぉ~」

笑みが深まって、紅は小さく溜め息を吐き出した。

「ほら、彩子先輩。部活に遅れてしまいますから」

ね、と体育館に促そうとするも、彼女は一歩も動かない。
梃子でも動かないといったその様子に、紅は道が残されていないことを感じる。

「逃げようとしたって、そうは行かないわよ。始まるまではあと30分もあるし、用意は済ませてあるんだから!」

その為にやたらと早く来ているのか。
呆れるやら何やら…と言った様子で肩を落とす紅。
時間通りではなく、早めに更衣室に来る癖が仇になったらしい。

「仲良く二人乗り。どこが“変化はない”の?」
「盗み見ですか、先輩。ちょっと趣味悪いですよ」
「恍けるつもりなら、部活に参加させないわよ。
今日は色々と教えるって言ってあるから、始まりから参加できなくてもいいって許可は得てるんだから」

胸を張るようにそう言い切った彼女に、心中でキャプテンを恨む。

「流川は女の子を後ろに乗せるような奴じゃないでしょ」
「同中だからじゃないですか?」
「あら、じゃあ…あたしも乗せてくれる?」

彩子がそう言うと、紅はその様子を想像してみる。
辛うじて、流川が彼女を後ろに乗せる様子は思い浮かべることが出来た。
しかし、そこまでの過程は…彩子が半ば強制的に、と言った風に進んでしまう。
彼が自分から乗せるとは、到底思えない。
紅は諦めの溜め息を吐き出した。

「…迂闊でしたね。結構歩いていたから、誰も見ていないと思っていたんですけれど」
「ふふ、甘いわ。…付き合ってるの?」

ズバッと核心を突く質問に、紅は少し躊躇った。
そして、ゆっくりと一度だけ頷く。

「いつから?」
「中学の…2年の時から」
「………そんな話、聞いたこともないわよ」
「誰にも言ってませんから」

腹をくくったのか、淡々と会話を進める。
そんな彼女の様子に、彩子は首を傾げた。
昨日の様子を見ていると、仲が悪いと言うわけではないだろう。
寧ろ、あの流川が自転車の後ろに乗せるくらいなのだから、二人の仲は円満だと言える。
それなのに、この冷めた空気は何なのか。
この年頃の女子学生といえば、恋人の話になれば自然と空気を甘くするものだ。
甘くとまでは行かなくとも、いくらなんでもこの冷帯のような空気はないだろう。

「……あんまり仲は良くないの?」

そんな筈はないけれど、と思いつつ、一応聞いてみる。
紅は彩子の方を見て、そして視線を逸らし…小さく息を吐き出す。

「悪くはないですよ。ただ…彼との約束を破ることになってしまったから、困っているだけです」
「約束?」
「“付き合っていることを公言しない”。彼と付き合う上での約束の一つです」

そう言ってから、紅はロッカーに向き合った。
そして、制服を脱いでTシャツに着替える。
彩子は彼女の言葉の意味を理解するのに、彼女が着替え終わるまでの時間を費やした。

「何か…変な約束ね。元々紅が公言するような子じゃない事くらい、百も承知でしょ?」
「百も承知じゃないですよ。彼は私のことなんて名前すらも知らなかったんですから」

そう、名前すら知らなかったのだ。
彼が知っていたのは…体育館でバスケットの朝練をしている女子部員、と言うことだけだった。
とても、恋人のことを話しているとは思えない神妙な表情で、紅はベンチに腰掛ける。

「中途半端に話しても理解に苦しむだけでしょうから…全部話します。
これから言うことは、絶対に口外しないでくださいね。彩子先輩なら大丈夫だって信じていますけど」

大層な前置きだと思う。
しかし、彼女がこれから話そうとしていることは、彼女にとってはそれだけ大事なことだと言うことだろう。
彩子は少し迷ってから、頷いた。

「私がバスケットを辞めたのは、2年に上がってからです。
と言うより、進級による入部届けを出さなかっただけですけどね」
「夏休みから男子のマネージャーをやってたわよね」
「ええ、流川に誘われて」

そう答えれば、そうだったのか、と驚かれる。
あれほどバスケットしか見えていないようだった彼が紅を勧誘していたのだとしたら、驚く以外にはないだろう。

「付き合い始めたのは…確か、5月だったと思います」

まだ学校中が進級に浮ついていた時期だった。
思い出すように目を細め、紅は続ける。

「言い出したのは、私からです。まぁ、当然ですよね。流川は私のことを知らなかったんですから」
「あたしには、そんな流川が頷いた事だけでも驚きだわ」

思わず口を挟んだ彩子に、紅はその通り、と微笑む。

「普通は頷きませんよね。現に、彼は興味ねーって切り捨ててくれましたし」

そう言って、クスクスと笑う。
全くもって、彼らしい答えだったのだろう。

「じゃあどうして付き合ってるの、って顔ですね。そこで生きてくるのが、『約束』ですよ」
「…どういうこと?」
「興味のない流川を納得させるために、提案を出しました。
付き合っていることを公言しないこと。バスケットの邪魔は絶対にしないこと。…他にも、いくつか」

指折り数えていく彼女に、彩子は呆気に取られた。
提案…普通は、男女交際に、提案も何もないだろう。
少なくとも、この二人の関係は普通のごく一般的な始まり方ではない。

「彼と付き合っているのは、利害の一致ですよ。私は彼の傍に居たかった。彼は円滑に練習がしたかった」
「…ち、ちょっと待って。それだと、その…流川は…」
「利益があるから、私と付き合っているだけですよ。私たちの関係なんて、そんなものです」

それは嘘だと思った。
けれど、言えない。
紅の表情は、彼がそう思って付き合っていることを疑っていない。
何を言っても、言葉は受け入れてもらえないような気がした。

「まぁ、嫌われてはいないと思います。でも…これが、私たちなんですよ」

そう呟いた紅の横顔は、どこか寂しげだ。
言葉を失っている彩子の視線の先で、紅は瞼を伏せる。


閉じた瞼の裏側で、彼女の記憶は、2年前のことを思い出していた。

08.06.17