君と歩いた軌跡 005
一人暮らしの高校生と言うのは、ゼロではないにせよ多くはない。
まだまだ未成年である紅の進学には、様々な手続きが必要だった。
もちろん、彼女の両親はそれを理解していて、手続きが滞っていると言うことはない。
だが、その準備などに忙しく、4月の半ばまでは部活に参加することが出来なかった。
まぁ、それに関しては、すでにマネージャーの先輩に話してあるし、主将にも伝えてあるので問題はない。
忙しい日を過ごしていた紅だが、今日漸く部活に参加することが出来る。
「―――筈なのに、担任の先生に呼ばれるなんて…」
なんて不運、と呟きつつ、早歩きの限界で進む紅。
校舎を抜け、体育館へと向かう足取りは軽いと言うよりは急いでいる。
そんな風に心ここにあらずと言った様子で移動していれば、前方不注意になるのも当然。
角を転がってきたバスケットボールに気付き、紅は慌てて脇へと避けた。
「誰かのミスボール?」
一旦足を止め、そのボールを拾う。
パスのミスだとすれば、すぐに誰かが取りに来るだろう。
体育館に向かっている自分とすれ違うはずはない、と再び足を動かした。
そして、ボールが転がってきた角を曲がり―――
「きゃっ!」
「っと、スマン」
―――壁だ。壁にぶつかった。
紅はそう思った。
バランス感覚はそう悪くはないと自負しているのだが、後ろに座り込んでしまった。
鞄のお蔭で強かに腰を打ちつけるということはなかったが。
そんな彼女に、ぶつかってきた壁―――ではなく、バスケ部員が手を差し伸べる。
ありがとう、と手を借りて立ち上がろうとしたところで、紅は漸くその人物を見た。
「…あ、れ?もしかして、桜木くん…?」
「ん?」
紅の言葉に、その彼がこちらを向いた。
どうやら、紅の手から離れてしまったボールの方を見ていたらしい。
彼は彼女と視線を合わせるなり、全身の動きを止め…そして、驚いたように目を見開いた。
「紅さん!!」
身長180センチメートルを超える男が頬を染める姿は、あまり見ていて嬉しいものではない。
けれど、紅はそんなことを気にした様子もなく微笑んだ。
「やっぱり桜木くんね。うわー…凄く久しぶり」
「お、お久しぶりです!!…紅さんは何でこんな所に!?」
「何でって…生徒だから」
自分の制服姿を見下ろしてからそう答えれば、彼は今それに気付いたように制服を見る。
確かに、彼女が着ているのは湘北の制服だ。
「ど、同級生…!」
「あー…うん。そう言うことになるね」
よろしく、と告げる彼女に、彼は「はい!」と大きく返した。
「あれ、桜木くん…」
「どうした、晴子ちゃん。―――…あれは…」
ボールを取りにいったはずの桜木が戻ってこない。
サボっているとは思わなかったけれど、何かあったのだろうかと体育館を覗くのをやめた桜木軍団と赤木晴子。
校舎へと踵を返した彼らの目に入ってきたのは、何やら話し込んでいるらしい桜木と、女子生徒だった。
女子生徒の方を見た水戸が、何かに気付いたようだ。
「知ってるの?」
「あぁ。雪耶さんだろ」
「雪耶?」
「ほら、花道が20人目に告白した…」
水戸が他の三人にそうヒントを出してやれば、彼らも「あぁ!」と思い出した様子で頷いた。
一方、それだけでは訳がわからないのは、唯一の女子、晴子だ。
「桜木くんの知り合い?」
「気になるのかい、晴子ちゃん」
「そ、そう言うわけじゃないけど…!………ちょっとだけ」
確かに、彼女がそう言うのも無理はないだろう。
同級生のみならず、他の学年の女子にまで恐い、不良だと噂される桜木だ。
そんな彼に臆していると言うよりは、寧ろ親しげに話している女子生徒は、自然と好奇心をくすぐってくれる。
「雪耶さんは、花道の恩人だよ」
「恩人…」
「詳しい話は、本人から聞いてくれ。話すかどうかはあいつ次第だけどな」
桜木が現在この晴子に片思い中だと知っているからこそ、その内容を告げない。
いい影響を与えるかどうかはわからないからだ。
とりあえず納得した様子の晴子の隣で、水戸も二人に視線を向ける。
そして、1年半ほど前のあの日を思い出した。
告白しては振られる日々を過ごしていた桜木花道。
一週間前に、公園で犬と戯れる女子中学生を見つけ、彼は恋に落ちた。
そして、翌週には仲間の協力もあり、その女子中学生の学校を突き止め、通学路で待ち伏せる。
歩いてきた彼女は、偶然にも一人だった。
「す、すみません!少しだけ時間をくれませんか!」
緊張を隠すことも出来ずに彼女の進路へと飛び込んだ彼。
そんな上ずった声に、彼女は自分に向けられた言葉であると気付くまでに少しの時間を要した。
しかし、すぐにクスリと微笑むと、構いませんよ、と答える。
そして場所を変え、桜木が一方的に出会った公園へと移動する。
「あなたの笑顔が好きです!付き合ってください!」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、ごめん。彼氏がいるの」
―――即答だった。
いっそ、迷う暇すら持たなかったことは、変に希望を抱かないと言う意味では優しかったのかもしれない。
がっくりと肩を落とし、ぶつぶつと何かを呟く彼に、彼女は首を傾げる。
「俺の夢が…夢がまた散った…」
「夢って何?」
「彼女と一緒に下校する夢…」
「…派手な見た目に似合わない、随分と純粋な夢だねぇ、君」
肩を落とす姿も、その夢も。
とてもではないが、真っ赤な髪をリーゼントに決めた、いかにも不良と言った格好からは想像も出来ない。
そのギャップが、とても印象深かった。
「ねぇ、君は誰君?」
「…さ、桜木花道です」
膝をつく自分の前にしゃがみこみ、覗き込んでくる彼女。
そんな彼女にうろたえつつ、桜木はそう答えた。
「桜木くんか。あのね、今日は私の彼、補習で一緒に帰れないの。待ってるって言ったんだけど…。
最近このあたりで変質者が出てて。危ないから、友達を誘って先に帰れって言われて」
「変質者…」
「うん。で、誘おうと思った友達も皆帰っちゃったの」
仕方ないからまだ明るいし、一人で帰るんだけど…、と説明する彼女。
先ほど振られたことも忘れ、桜木は「それは危ないです!」と声を上げる。
彼女は、そんな彼の反応ににこりと微笑んだ。
「君さえよかったら、一緒に帰ってくれない?」
ここで、漸く彼女の言わんとしている事が理解できた。
言葉を失う彼に、彼女は首を傾げて「どう?」と問う。
「よ、喜んで!」
強く頷けば、彼女はこの日一番の笑顔で「ありがとう」と告げた。
その彼女こそ、1年半ぶりに再会を果たした雪耶紅なのだ。
彼女と、と言う夢は叶っていない。
けれど、紅と一緒に帰ったあの日は、桜木にとっては忘れられない日になった。
彼女は、歩き出してからは一切彼氏の話を持ち出さなかった。
桜木の話を熱心に聞き、偶に自分のことも話す。
手こそ繋いだりはしなかったけれど、それこそ本当の恋人のように過ごした。
見た目だけで判断せず、その本質を知ろうとしてくれる態度。
お世辞にも教養があるとは言えない自分の言葉一つにも、熱心に耳を傾けてくれる。
「ありがとう。実は、ちょっとだけ怖かったから…君がいてくれてよかった」
家まで送り届け、最後にそう言った彼女の言葉は、今でも一字一句忘れることなく覚えている。
姿を見ただけで怯えたように逃げられた事もあった彼にとって、紅の存在は大きかった。
「紅さん…彼氏と仲良くしてください」
「ありがとう。見た目が恐いけど…中身は素敵だね。きっと、私よりずっといい人が見つかると思うよ」
元気でね、と門のところから手を振り、見送ってくれる彼女。
再会の約束をしたわけではないし、振られたことに変わりはない。
けれど、この日だけは、清々しい気持ちで終わることが出来た。
恋人との付き合いに対しての願望がより大きくなったのも、この日がきっかけだった。
08.05.07