君と歩いた軌跡 004
入学式まではのんびりと過ごすことが出来た。
少しずつ授業も始まり、真新しい教科書を開いて黒板に向かう生徒たち。
この辺りは、中学校時代とは何も変わっていない。
昔から微妙なところで運がいい、と自負している紅。
今回は、クラス編成の所でその運がまわってきたようだ。
示し合わせたわけでも仕組んだわけでもないのに、何故か自分の斜め前の席になった流川。
紅は学生ならば、誰もが一度は望むであろう窓側の一番後ろの席だった。
位置関係を想像してほしい。
角に位置する彼女の席から斜め前の方向と言えば、ひとつしかない。
その延長線上には黒板がある。
どう考えても、彼を一番後ろに持ってこないのは、他の生徒の迷惑だろうと言いたい。
入学初め、と言うこともあり、席順は教師によって決められていたために、残念ながら文句は飲み込んだ。
黒板が見えない、と溜め息を吐き出したのは紅だけ。
彼女の隣の男子は、前に壁があることを素直に喜んだ。
尤も、授業中は机と仲良しになる流川は、壁どころか逆に目立つ存在だ。
また寝てるのか、この野郎。
そう青筋を浮かべつつ、起こすまでは至らない教師の怒りの矛先は、流川の周囲の生徒へと向けられる。
位置関係の所為か、一番被害をこうむっているのは、流川の後ろであり紅の隣の席である男子生徒だった。
「俺はこいつと仲良くやれる気がしない…」
今日も今日とてご指名を受けたその男子は、ぐたりと机に伏した。
壁にならないならせめて遠くに離れてくれ、と訴える様は、軽く笑いを誘う。
「来週席替えだから」
それまでの我慢だよ、と言いつつ、先ほどの授業で使った教科書とノートを机の上でトントンと整える。
さて、次は何の授業だったか…そう思ったところで、斜め前の席の彼がガタンと立ち上がった。
「…流川?」
彼女自身が起こしてしまったわけではないので、どうしたの、と声をかける。
まだ寝ぼけた様子で振り向いた彼は、ただ一言こう呟いた。
「…屋上」
そうして、振り向くこともなく教室を横切り、廊下に出て行ってしまった彼。
怪訝な表情を見せる隣の席の男子とは裏腹に、紅はすでに次の授業の準備をしている。
「何だったんだ?」
「いい天気だし、屋上に寝に行ったんでしょ。放っておけばいいよ」
慣れた様子でそう答えた彼女に、一瞬きょとんとした表情を見せる。
それから、自己紹介で同じ中学校出身だったな、と思い出し、勝手に納得した。
学校での付き合いは実にあっさりとしていて、誰も二人が付き合っていることを知らない。
流川は人気があると知っていても、自分との関係を広めようとはしていなかった。
思考を遮るようにチャイムが鳴り響き、程なくして教師が入ってくる。
号令の後に腰を下ろした紅は、教師の声をBGMにして、目立たない程度に窓の外を見つめた。
今日が初めてだった教科。
故に、流川のサボり癖…と言うか、睡眠学習の程度を知らない。
「流川ー。流川はどこだー?」
「さっきの休憩時間にフラフラと出て行きました」
「んー…保健室か?まぁ、いい」
その程度の会話で彼に対する追求は終了。
この教師が彼の睡眠学習に怒りを覚えるのはいつ頃だろうなぁ、と他人事の感想を抱く。
「―――よし、今日はここまで。次の授業までにこのプリントを…」
そうして、前の席からプリントが配られてくる。
そこで、ふと教師と目が合った。
―――なんだか嫌な予感がする。
「雪耶だったな。流川に渡しておいてくれ」
「…はい」
面倒なことを頼まれた、と思いつつ、紅はそれを受け取った。
クラスの女子の何人かが、流川との接点が羨ましいのか、「いいなぁ」と呟く。
そんな呟きは聞こえなかったことにして、担当教師からそのプリントを受け取った。
席に戻る途中でチャイムが鳴り響き、そのまま授業は終了。
羨ましげに向けられる視線が鬱陶しく、数分間は何とか耐えていた紅は、残り6分のところで席を立った。
屋上へと歩きつつ、紅は溜めた息を吐き出した。
階段が見えたところで、自分が何も持たずに教室を出てきたことに気付く。
とりあえず当てもなく歩いた結果がこの場所だっただけだが、彼が居る屋上に来るならばプリントを持ってきてもよかった。
そこまで考えたところで、屋上で渡されても困るだろう、と思い直す。
その時、屋上へと通じる扉が独りでに開いた。
そこから降りてきたのは流川だ。
しかし、その姿を見た紅は、呆気に取られた様子で彼を指差す。
「何それ!」
思わずそう声を上げた。
彼女が指差した先に居る流川は、ゆっくりと階段を下りてきている。
その顔面には頭から流れ出ているであろう血が、筋を作って垂れていた。
屋上で寝ていて、何をすればそんなことになるのか。
「何か…知らん奴にやられた」
「やられたって…あぁ、もう!血を学ランで拭わないで!」
ごしごしとコメカミを流れる血を袖で拭う彼。
紅は彼の元へと駆け寄りながら、上着のポケットからハンカチを取り出す。
ガーゼほどに清潔ではないけれど、少なくとも学ランの袖よりはマシだ。
「こすっても駄目ってば!止血!!」
「…落ち着け」
「君が落ち着きすぎなの!ほら、ちょっと屈んで」
「ん」
紅の言葉に素直に上半身を傾ける。
近くなった彼の頭を見て、傷があると思しき辺りをハンカチで押さえる。
よく見てみれば、頬も少し腫れているではないか。
「もう…また寝ぼけて相手を伸しちゃったんじゃないの?」
「………………」
「否定はしないわけね」
「怪我を酷くしたのは別の奴だ」
「?よくわからないけど、とりあえず保健室に行こう?」
ポツリと呟いた彼の言葉は聞こえたが、意味がわからない。
現場に居合わせなかったのだから仕方がないだろうと、保健室へと促す。
話を聞くのは後でも出来ることだ。
出血の所為か、ややふらつく足取りの彼を支えつつ、階段を下りていく。
出血の理由を「寝ぼけて壁に頭をぶつけた」と言い張り、治療を受けた流川。
本来ならば病院に行った方がいいのだが、彼自身がそれを拒み、保健医は溜め息混じりに頷いた。
「流川。頭は大丈夫?あれから血は出てない?」
「…あぁ。問題ない」
「そ。じゃあ、私は用があるから先に帰るけど…放課後、あれ出しに行くんでしょ?」
こくりと頷く彼に、紅はそっか、と呟く。
「一緒に出しとくか?」
「んー…ありがとう。でも、私は明日出すことにするよ。ちょっと話もしないといけないし」
そう答えると、紅は自分の鞄を肩に引っ掛けた。
そして、びしっと彼に指を突きつける。
「今日は激しい運動は禁止!覚えてるよね?」
「…わかってる」
「じゃあね」
紅はそう言うと、すでに人の居なくなった教室を出て行く。
それを見送り、彼女の背中が見えなくなったところで、流川は入部届けを前にボールペンを握りなおした。
08.05.02