君と歩いた軌跡  003

卒業式も終わり、そこからはずっと引越し作業に追われていた。
シンプルだと思っていた自室は、それでも結構な量の荷物があったようだ。
次々にダンボールが組み立てられてはその中身を埋め尽くし、新たなものが必要になる。
必要なものは買ってもいい、と言ってくれたが、3年後に戻って来る時に荷物が倍になるのは困る。
持っていけるものは持っていくと決め、自宅の紅の部屋が片付いたのは、3月も20日を過ぎた頃だ。
ダンボールに詰めたり、引越しのトラックに載せた荷物。
全てを、再び向こうで開くのだと思うと、それだけでやつれてしまいそうだ。
一人暮らしを始める前からこんなことでは大変だな…と溜め息を吐き出した。




そんなこんなで怒涛の半月を過ごし、迎えた一人暮らし初日。
今から行く、との簡略なメールを受け取った紅は、マンション下の公園に来ていた。
家を出る前にメールをしたとして、あと5分はかかる。
降りてくるには少し早かったか、と思いつつ、ドリンクと共に持ってきたバスケットボールを手に取った。
子供の遊び用のそれではなく、本格的なボールだ。
それを片手でドリブルしながらゴール前まで近づき、3メートルほどの所からシュートを放つ。
美しい弧を描いて飛んだボールは、フレームを掠めることもなくパスッとネットのみを揺らした。

「…腕はそんなに落ちてない、か」

誰に告げるわけでもなく、そう呟く。
弾むのをやめて止まったボールを持つと、今度は先ほどの位置から更に2メートルほど後ろに下がった。
すっと膝をかがめ、全身の筋肉を使ってシュートを放つ。
パシュッとゴールネットが揺れた。

「流石は女子部エースだな」
「その話はしないでって言ったでしょ」

聞こえてきた声の方を向いて口を尖らせる紅。
少し強めに睨む様な目を向けたのだが、流川はまったく動じない。
彼はジャージの腕をまくりつつ、持っていた袋を紅に渡した。

「おはよう。それと、これ何?」
「ん。朝飯の材料」

そう答えると、彼はバッグから取り出したバスケットボールを片手にゴールの方へと歩き出してしまう。
思わず受け取ってしまった紅だが、告げられた内容に二・三度瞬きした。

「え、ちょっ…どうして材料なんて?」

流川が持ってきたというのか。
あの、バスケット以外には無頓着で、どちらかと言うとかなり鈍いこの男が。
信じられない、と言った様子の彼女に、彼は事も無げに答えた。

「母さんが持っていけって。詳しい話は本人に聞け」

それだけを言うと、彼はボールを足元において軽く準備運動を始める。
こうなってしまえば、何を言っても無駄だ。
本人に、と言う彼の言葉の通り、直接聞く事にしよう。

「練習は何分?」
「…何分かかる?」
「んー…30分もかからない」

袋の中身を確認し、出来る朝ごはんの献立を考える。
そこから時間を告げると、彼は「じゃあ、30分」と答えた。

「わかった。30分経ったら部屋に来て」

そう告げて、彼が頷いたのを見届け、紅は部屋へと向かう。
部屋に戻った紅は、まず朝食の準備に入った。
ある程度作業が進み、手に余裕が出たところで携帯を手に取る。

『―――はい、流川です』
「おはようございます。流川さんのお宅ですか?雪耶です」
『あら、紅ちゃん。おはよう』

雪耶と言う苗字から、即座に紅に結びついたようだ。
電話の相手…流川の母は、嬉しそうな声を上げた。

『楓はちゃんと材料を渡してくれた?あの子、ちょっと抜けてる所があるから忘れていないか心配なんだけど…』
「いえ、ちゃんと受け取りました。その事なんですけれど、材料なんて結構ですよ」
『そうもいかないわ。毎朝作らせることになるんだし、材料くらい受け取って頂戴』
「でも…」
『これは紅ちゃんのお母さんとも話してあるから。お互いに了承済みなの。
楓が材料を持っていって、紅ちゃんが作る。ギブ・アンド・テイクでしょ?』
「でもこれ、二人分ですし…」
『別々の朝食を作るのなんて手間でしょう?
まぁ、あくまで紅ちゃんが受け取れないって言うなら…楓の方は私が説得するから、気にしないで。
折角練習できる場所が出来て嬉しそうだったけど、彼女を困らせるような子じゃないから大丈夫』

紅が受け取らないならば、マンションの公園での練習そのものを辞めさせるつもりらしい。
軽い脅しじゃないか、と思いつつ、紅は苦笑を浮かべた。
いい頃合になってきたスクランブルエッグの火を止め、片手で皿に盛り付けていく。

「…では、一品は私の家の材料で作る。これで手を打ちます」
『交渉成立ね。明日からは一品分は材料を減らすわ。多かったら翌日に使ってくれて構わないから』
「ありがとうございます」
『所で、紅ちゃんは朝食は和食?それとも洋食?』
「どちらでも大丈夫ですから…楓くんの好みでお願いします」
『わかったわ。…ついでに、あの子の好きなメニューのレシピも入れておくわね』

電話口の向こうでいい笑顔を浮かべているであろう表情が頭に浮かぶ。
紅は少しばかり頬を染め、照れたように笑ってから「お願いします」と答えた。
きっと、こちらの反応など向こうには筒抜けだろう。









それから二・三話した後通話を切り、朝食の仕上げに取り掛かる。
インスタントコーヒー入りのカップを沸かしているポットの前に二つ並べたところで、インターホンが鳴った。

「時間ぴったりだね」

モニタで来訪者を確認し、玄関のドアの鍵を開ける。
そう声をかければ、彼は小さく頷いた。
一番初めに来た日以降、何度か手伝いに訪れた彼女の部屋。
男手と言うのは引越しには何かと便利で、彼女のみならずその両親にまで感謝されたほどだ。
最後に来た日と比べると随分と片付いていて、少しだけれど、生活感が出始めているような気がする。
さっさとキッチンに戻っていく彼女の背中を追い、流川も部屋の中へと足を踏み入れた。
運び込んだ覚えのある折りたたみ式のテーブルの上に二人分の朝食が用意されている。
料理をしない流川からすると、30分と言う短い時間であの材料から食事が生まれるだけでもすごいと思う。

「汗を流してくる?あぁ、でも食べた後も動くなら、二度手間になるのかな」

いい色に焼けたトーストの乗った皿を手にキッチンから出てきた彼女は、流川にそう問いかける。
彼が「何でわかるんだ」と言いたげな視線を向けるのに対し、軽く肩を竦めて見せた。

「30分程度で朝練が終わるとは思えないからね。況してや、今は休みなんだし」

二人が一年生か二年生で、進級を迎えていたならば、話は違っていただろう。
しかし、今回は入学を控えている身だ。
学校によっては春休みも部活に参加できるのだが、湘北は来週からしか参加は出来ないらしい。
新入生と言うこともあり、あまり練習に参加できないのが常…と言うのが風の噂だ。
少なくともこの先一週間は暇をもてあます流川。
休みと言うこともあり、いつも練習していた公園は子供や学生に占領されていた。
紅がここに移ってくれて本当に助かったと思っている。

「で、どうするの」

シャワーする?と首を傾げる彼女は、いつの間にかキッチンに戻っていた。
ポットの前に立っているところを見ると、飲み物を入れるタイミングを悩んでいるらしい。
少しだけ考えてから、流川は「先に食う」と告げた。
滝のような汗をかくには、30分程度の自主練では到底足りない。
ついでに言うならば、30分後に彼女の部屋に上がることを意識していた彼は、シュート練習のみに絞っていた。

「じゃあ、座って」

そんな彼の陰の努力を知って知らずか、紅はすぐにそう答えた。
食事を選んだ時点でポットからお湯を注いでいたために、彼女の手にはすでに二人分のコーヒーがある。
彼の好みと、自分の好みの分量のクリープと砂糖を混ぜてあるコーヒー。
インスタントながらも香りのよいそれは、飲んだことのある友人などの間でも割と好評だ。
湯気立つカップが二つ並ぶのを見て、どこか照れくさく思いつつ、表情にはそれを出さない。
そんな自分の考えを振り払うように、すでに座った彼女の向かいへと腰を下ろした。



「さっき電話したよ」
「ふーん…。何て?」
「…押し切られた。毎回持たせてくれると思うから、宅配よろしく」
「ん」
「でも、お母さんの手料理の方が美味しいでしょ?学校がある時はまだしも、休みは帰ってもいいんじゃ…」
「十分美味い」
「………まぁ、君がそう言うなら…止めはしないけど」

08.04.30