桜花爛漫

昔、一匹の妖狐がこの世界に迷い込んできました。
その妖狐は、己の力量を正しく見定め、神たる力を借りるべくこの山を訪れました。
妖狐は力を貸したお礼として絳華石と言うものを渡しました。
彼女はこの山が他の妖怪により脅かされている事に気付いていたのでしょう。

―――この石で、山全体に結界を張る事ができます。

見本を示すように絳華石を使った彼女により、山は強靭な結界に包まれました。
その力を見て、気付いたのです。
しかし、気付いた時には、彼女は既にそこを去った後でした。










「…その妖狐が、私の母だったんです」

座布団に腰を下ろした状態で、紅はそう締めくくった。
ふむ、と腕を組む総大将。

「それだけでは、稲荷神がおぬしに従う理由が見えんのぅ」

まだ何かあるだろう、とばかりに細められる眼差し。
紅は少しだけ悩んでから、軽く肩を竦めた。

「母は空狐の血脈です。空狐は狐の中でも最高位。神とて、所詮はその眷属に過ぎませんから」

狐の中には、空狐と呼ばれる位がある。
数千年の時を生きた狐で、その能力も高い。
土地を治める神だとしても、一匹の狐である事に変わりはない。
狐の中で、位はとても重要視されるものなのだ。

「…なるほど…それで“真の主”か…」

かつて、神の口から聞いた言葉が脳裏を過ぎる。
長い時を経て、漸くその意味を理解した。

「それで…紅。おぬしは北の山の主となり、どうするつもりじゃ?」

総大将の言葉に、紅は今それに気付いたとばかりに目をぱちりと瞬きした。
それから、うーん、と悩むように頭を捻る。

「…どうするつもりもありませんよ。私が認められたのだって、ただ空狐の血脈だからと言うだけの話。
何かをしてほしいとは思いません。ただ、あそこが平和なら、それで十分です」

自らの意思をはっきりと決めた彼女は、真っ直ぐな目でそう言った。
その目は、12歳が見せるものではない。
そこに違和感を覚えた総大将は、その疑問をそのまま口にした。

「おぬし…リクオと同い年には見えんのぅ」
「…それは、当然だと思いますよ。12歳と言うのは“人間的に”数えた年齢ですから」

呆気無くそう答えた彼女は、にこりと微笑んだ。
この妖狐の姿であれば、山一つ分の妖怪を率いると言っても、多少若いとは思うが納得できる。

「妖怪としての私は、もうすぐ50歳です」

なるほど、そう言う事か。
妖怪として、50年と言う時間は決して長いものではない。
寧ろ、まだまだ若輩者として扱われる年齢だ。
しかし、少しずつなれど経験を積んでいる年齢である事は確か。
彼女の見せる眼差しの奥に、彼女が見て、聞いて、そして感じてきたものが見える気がした。












手持ち無沙汰だった紅は、昼過ぎまで屋敷の中を回っていた。
そこここにいる妖怪に挨拶をしていたのである。
居候となることを話すと、中には良い顔をしない妖怪もいた。
しかし、次に北の山の主となった事を話すと、その態度は一転する。
中には媚びるような態度を見せる者もいて、気分を害した事もしばしば。
一通り屋敷を回ったところで、紅は自室からも見える桜の前へと足を進める。
桜吹雪の中で出会った、妖怪のリクオ。
夜が訪れるにはまだ早い今の時間、彼はあの世界で独り、静かに過ごしているのだろうか。

「…夢じゃ…ないのよね…」

胸元から吊り下げている絳華石を手に取る。
血が凝固して出来ているにもかかわらず、宝石を思わせるほどに透明なそれの中に見える、一枚の花びら。
赤い絳華石の中に存在するそれが、昨日の出来事が夢ではないと言う証拠だった。

「紅様、こちらでしたか」

とん、と肩に飛び乗ってきた悠希。
探しましたよと不満を零す彼女に軽い謝罪を口にして、絳華石を服の中に隠す。
この石の存在はあまり知られない方がいいだろう。

「何かあった?」
「妖狐の多くは、やはりあの山に棲み付いているようです。他の…組に属している者もいますが」
「あの山は妖狐には住み易い環境になっているから、無理はないわ。集まってくれているならありがたいわね」

血がどうの、と言う事に責任感を抱いているわけではない。
けれど、少なくとも…稲荷神との約束は果たさなければならないと思う。

「…期日は一週間。その間に妖狐の位置関係を把握するわ。…出来るわね?」
「承知いたしました」

命令とも取れる言葉に深く頭を垂れた悠希は、そのまま空気に溶け込むようにして姿を消した。
気配も遠ざかり、やがて感じ取る事ができなくなる。
紅は悠希が去った方を、物言いたげな視線で見送った。











「ごめんなさい、少しいいですか?」

そう声をかけて足を踏み入れたのは、屋敷の台所だ。
夕食の準備に取り掛かっていると言う事もあり、台所には女性の妖怪が顔を揃えている。

「あ、昨日の」

一番近くにいた、若い女の子の妖怪。
着物で首にマフラーを巻いている彼女は、紅を見て何かを思い出したようだ。

「初めまして、ですね。挨拶に回った時には会えませんでしたから」
「あ、学校に行ってたから…」

返事を聞いて、そう言えばリクオと一緒に出て行くのを見たような気がするな、と思い出す。
改めて自己紹介をすれば、彼女も嬉しそうに自己紹介を返してくれた。

「紅さんは…」
「紅でいいよ」
「じゃあ、私もつららでいいよ!良かったら、一緒にご飯を作ろ!」
「うん。手伝わせてもらおうと思って来たの」

よろしくね、と微笑んだ紅に、雪女…つららの頬がほんのりと赤く染まった。
同性から見ても、彼女は綺麗だ。
本人は気にしていないけれど、つらら自身も可愛い容姿をしている。
紅は彼女とは違って、可愛いと言うよりは美しいや綺麗と言った言葉が似合う。
和気藹々と夕食作りを始めた二人を見ながら、毛倡妓が穏やかな笑みを口元に浮かべた。

「何か賑やかだな」
「お帰り、首無。見ての通りだよ」
「…あの子、どんな感じ?」
「今日は屋敷中の妖怪に挨拶して回ってたよ。その内アンタの所にも行くと思うけど…北の山の主なんだってさ」
「へぇ…総大将を拒んだ山の主に受け入れられたんだ?」
「詳しい事は聞いてないけどね。ま、必要があれば話があるでしょう」

さて、と呟いて、毛倡妓も夕食の用意を手伝う。
少女二人に女性が一人。
そんな三人の背中を見つめていた首無は、やがて静かに台所を後にした。

09.08.25