桜花爛漫

老人とは思えぬ強い押しに負けて、奴良組の屋敷にて居候の身となった紅。
夕食前には屋敷の端っこに部屋を用意され、夕食の席で屋敷に住まう妖怪に紹介された。
まさかこんな風になるとは思っていなかったので、あれよあれよと言う間に時間が過ぎていった感じだ。
数時間後に解放された紅は、ぐたりとした様子で宛がわれた部屋へと引き下がった。

「………疲れた」
「紅様は元々あのような場がお好きではありませんからね。しかし―――」
「わかってる。お世話になる以上、屋敷の者に挨拶するのは当然。だから、ちゃんと耐えたでしょ」
「ええ、その通りです」

満足げに頷いた悠希に、紅が小さく溜め息を吐き出す。

「さて、私は今から周辺の見回りに行って参ります。紅様はゆっくりとお休みください」
「んー…そうだね。明日からは、一緒に行くから」

今日は到底一緒に行けそうにはない。
窓から出て行く悠希を見送った彼女は、その場から動かずに屋敷の庭を見つめる。
ふわり、と緋色の花びらが紅の視界に踊った。

「…桜…」

昔、母に見せてもらった本に載っていた日本の樹木を思い出す。
似たような木は魔界にもあったけれど、随分と前に枯れてしまったらしい。
植物を育てることに長けている父ですら、魔界の土は合わない、と育てることを断念していた。
一度膨らんだ好奇心は、容易に抑えられるものではない。
初めこそしっかりとおろしていた腰は、いつしかうずうずと宙に浮いてきてしまっていた。

「…よし」

無駄な足掻きはやめよう。
そう決めた紅が、足音もなく部屋を後にした。
















見上げるような大きさではない。
けれど、立派な枝振りのそれは、見る者を圧倒する魅力を持っていた。
見事に咲き誇るそれが、ひらり、ひらりと花びらを風に預けていく。
暫くそれを見上げていた紅は、ふと自身の胸元にある絳華石を見下ろした。
そして、意識を集中し、桜と自身を囲うように結界を張る。
今日来たばかりの新参者が庭先で長時間居座ることをよく思わない者も居るだろう―――そんな配慮だ。
一目見たことに満足して部屋に引き下がればよかったのだが、何故かもう少しここにいたいと思ってしまった。
紅とこの桜を囲う場の、言うならば空間そのものに対し、僅かに手を加えて感知しにくくする。
彼女が張った結界は、そう言った種類のものだ。

「ほぅ…見事だな」

聞こえた声に、紅は耳を疑った。
ある意味では水に映った世界のように、現実とは切り離された空間。
であるにも関わらず、第三者の声が聞こえたのだから、彼女が驚くのも無理はない。
声の方を見れば、いつの間にか桜の木の枝に腰掛けている一人の男。
紅の位置からでは、桜の幹に凭れかかる彼の肩しか見えていない。

「違和感なく現実から切り離された世界―――まるで水面に映る現の空間だな」
「あなたは…誰?」

こちらを振り向こうともせず、一切姿勢を変えないままに語りかけるように声を上げる彼。
紅の言葉に、男は漸くその身体を動かした。
トン、と桜の枝から飛び降り、足を縫い付けられたように立ち尽くす紅へと近付いてくる。

「聞きたい事は、“どうしてこの空間に”か?」

振り向いた男は、不敵な笑みを浮かべた。

「それはこっちの台詞だぜ?お前が俺の空間に結界を繋いだんだからな」

ザッと地面を踏む足音が近付く。

―――この匂い、この妖気…。

まさか、と思うけれど、紅の感覚がそれを否定することを許してくれない。
全てが、この男と“彼”を繋ぐのだ。

「…リク…オ?」

呟いた名前に、男が軽く目を見開き、足を止めた。
そして、ほぅ、と感心したように声を上げる。

「昼の俺を見ていて、よくわかったな。流石は妖狐の娘か」
「“昼の”?」
「妖怪の血は4分の1だからな。活動できる時間が限られてる」

4分の1―――リクオの血が薄いと感じた理由は、そこにあったのか。
紅は、このとき初めて、リクオが妖怪のクォーターである事を知った。
そして、同時に理解する。
目の前の彼が、リクオの妖怪の姿なのだと。

「…随分と性格が違うね」
「昼間のままで妖怪を束ねられると思うか?」
「………なるほど」

妖怪を束ねるという意味では、目の前の彼の方がまだ納得できる話だ。
漸く頭の中が整理できてきて、本来の冷静さが戻ってくる。
とは言え、紅を知らない者からすれば、彼女がやや冷静さを欠いていたなどわからないだろう。
ポーカーフェイスは父親譲りと言ったところか。

「あなたはずっとこの空間に居るの?」
「偶には表に出る事もあるが、な」
「そう」

現実世界とは表裏一体の空間でありながら、現実世界とは異なる場。
そこにあるのに届かない世界―――それが、この場所だ。
紅が作り出した結界が、彼の過ごす空間と同調した結果だろう。

「―――…探してるぜ?」

ふと、庭先の池に視線を向けた彼…同一人物なのだから、今後はリクオと呼ぶ事にしよう。
とにかく、リクオの声に、紅もそちらに視線を向ける。
水面に映る世界の縁側を走っていく狐―――悠希だ。

「…いいの。今は…邪魔をされたくない気分だから」
「気紛れな主を持って苦労するな」
「主じゃない。悠希は…母さんの使い魔だからね」

そう、悠希が紅を心配するのは、母に彼女を頼むと言われているからだ。
その義務がなければ、悠希は母の元を離れたりはしない。
きっと、今も悠希は母の元に帰りたいだろう。

「…来いよ」
「え?」
「桜を楽しみに来たんだろ?どうせならそんなに離れた所からじゃなくて、近くで楽しめばいい」

そう言って手を差し出され、紅は躊躇いを見せた。
よく考えてみると、紅の傍には同じくらいの年の妖怪はいなかった。
何より、彼女は両親に鍛えられ、自他共に認める実力の妖怪だったのだ。
数多の妖怪を束ねるトップである両親の元に生まれ、紅は両親と共に立てられる存在だった。
それ故に、このように同じ立ち位置から手を差し伸べられた事がない。
彼女の戸惑いをどう思ったのか、リクオは差し出していた手を伸ばし、彼女のそれを掴んだ。
そのまま彼女の手を引き、トンと地面を蹴る。
驚く紅を他所に再び桜の木の枝へと飛び乗った彼は、手頃な枝に彼女をおろした。

「絶景だろ?」

口元の笑みと共にそう告げられ、紅は顔を上げた。
視界一面を覆う緋色の世界。
彼女が言葉を失う様子を見て、リクオは楽しげに笑った。

「この世界に踏み込んできたのは、お前で二人目だな」
「一人目は?」
「昼のリクオ」
「あぁ、本来ならば、交わるはずのない世界…だね」
「そう言う事だ」

そう答えた彼は、幹に背中を預けるようにして枝の上に寛ぐ。
彼ほどに桜の似合う妖怪を見た事はなかった。
少しの間目を奪われていた紅は、やがてスッと視線を逸らす。
ふわり、と吹いた風に花びらが紅の手の中へと舞い込んでくる。

「…これ、貰っても構わない?」
「好きにしな」

手の平の花びらを見下ろした紅が問いかけると、彼は気にした様子もなくそう答えた。
その答えを聞いた彼女は自分の胸元の絳華石も手の平に乗せる。
そして、花びらと一緒に絳華石を握りこんだ。
暫くして指を開くと、そこには絳華石だけが残っていた。
そして、赤く澄んだ絳華石の中に踊る一枚の花びら。
それを見下ろした紅は小さく微笑み、ひょいと枝から飛び降りた。

「私、帰るね」
「そうか」
「また来るよ。もちろん―――あなたが、許してくれるなら」

彼の視線が紅へと向けられた。
やがて、口元に笑みを浮かべた彼は、好きにしな、と告げる。

「また、ね」

視界を閉ざし、意識を集中する。

「あぁ、また…な」

彼の気配が完全に消える直前に、そんな声が聞こえた気がした。

09.08.07