桜花爛漫
大層なお屋敷に一歩足を踏み入れて、初めましてと挨拶をした次の瞬間、中の妖怪が一気に臨戦態勢を取る。
いや、争いに来たわけじゃないんだけど…などと言う穏やかな話は通用しそうにない。
向けられる殺気は、元の世界の修行中に向けられたそれよりはいくらか柔らかく感じる。
何があるかわからないからと本気で鍛えてくれた父に、修行に関することで初めて感謝した。
「ほぅ…これはまた、珍客じゃの」
庭先の妖怪が紅を睨みつける中、一人の年老いた妖怪がそう呟いた。
年老いた妖怪だと思うのだが、元々こう言う容姿なのかもしれない。
どちらにせよ、彼の登場により、この場の空気がより一層引き締まるのを肌で感じた紅。
少なくとも、彼がここの高い位置に居る妖怪である事は確かだった。
「初めまして。少々お尋ねしたいことがあり、失礼ながらも敷地内にお邪魔しました」
「ふむ…。妖狐の娘が何を尋ねるのか…楽しみじゃの。奥に通してやれ」
くるりと踵を返す彼。
え、妖狐?と言いたげな視線が紅に突き刺さり、あぁ、と納得する。
紅は即座に自身の姿を妖狐のそれへと戻した。
「お騒がせいたしました。街中を歩くのに不便を感じましたので、人間の姿を取っておりました」
ぺこりと頭を下げる彼女の頭には狐の耳。
腰の辺りには尾が見えて、彼女が人間ではないことを教えてくれる。
人間が迷い込んだものと思った面々は、そこで漸く肩の力を抜いた。
その場の緊張がほんの少しだけ和らぐ。
一人が案内を名乗り出て、紅が屋敷の奥へと通された。
突如現れた美しい少女の妖狐に、妖怪たちが色めく。
広い部屋へと案内された紅は、平机を挟んで彼の向かいへと促される。
彼は妖怪、ぬらりひょんだと言う。
この屋敷は奴良組であり、それの総大将に位置するのが彼、と言うことらしい。
好きに呼ぶといいと言われたので、誰かが読んでいたように『総大将』と呼ばせてもらうことにしよう。
「改めまして…紅、と申します。お時間を割いていただきありがとうございます」
「何、老いぼれの暇潰しに付き合ってもらうだけじゃよ。して、紅。この辺りでは見かけん顔じゃの」
「はい。―――聞いていただきたいことがあります」
姿勢を正した紅は、一度悠希を見た。
悠希は少し悩んだようだが、彼女の決定に文句を言うつもりはないようだ。
「少し違う空間へと流されてしまったようです」
「違う空間…のぅ」
「私の知る世界は魔界と天界、そして人間界。三つに分かれた世界です。
妖怪は基本的に魔界に住み、深く影響を与えない程度に人間界に溶け込む者も居ます」
ある意味ではこの世界も、同じなのかもしれない。
しかし、違うのは妖怪が本来あるべき別の世界が存在していないということ。
妖怪は人間の中で生きていかざるを得ないということだ。
この屋敷までの間に紅が抱いた感想である。
「ふむ…あながち間違ってはおらんようじゃの。それで、おぬしは何を望んでここに来たんじゃ?」
「この世界で生きていく上で必要な、最低限の情報をいただければと」
「情報だけでどうにかなるものかのぅ…」
「様々な状況で生きる術は身に着けていますから」
人間の中に入り込む事だって不可能ではない。
そのように育てられた紅にとって、この状況は絶体絶命のピンチと言うわけではなかった。
しかし、総大将の彼は、その返事に難色を示す。
「おぬし、年はいくつじゃ?」
「…十、二?」
たぶん、それくらいだったはずだ。
魔界では年齢などさほど重要なものではない。
生まれたばかりでも紅と同じくらいに強い妖怪も居れば、齢1000を超えても人間の赤子程度の者も居る。
寧ろ、尋ねられるのはランクや所属だ。
経験にない問いかけに、紅は戸惑いながらそう答えた。
「丁度リクオと同じくらいか…やはり、放り出すにはちと気が引けるの…」
どう思う?とお茶を運んできた女性に問いかける表情は、何かを企んでいるそれだ。
お盆を手に肩を竦めた女性は、紅の視線に気付いてにこりと微笑む。
「雪女が喜ぶんじゃないですか?」
「同じ年頃の娘はおらんからのぅ」
「あの…?」
二人の会話にその企みの内容がわかってきた紅。
彼女が辛うじて上げた声は、玄関の方からの声によって掻き消された。
おかえりなさいませ、と言う声の合間に、ただいま、と言う少年の声が聞こえる。
「丁度良いわい。リクオを呼んで来てくれ」
「はい」
総大将の声に従い、女性が部屋を出て行った。
口を挟むタイミングを失った紅が我に返るのと同時に、足音が近付いてくる。
「じーちゃん、僕に用事って…お客さん?」
開かれたままだった襖のところから顔を覗かせたのは、紅とそう変わらない年齢の少年だ。
学生服に身を包んでいる、一見するとただの人間の少年。
しかし、紅は彼に一方的な覚えがあった。
『紅様?』
『…この子だ。薄いけど、妖怪の血が入ってる』
紅の異変に気付いた悠希が念信で声をかけてくる。
表情に出さずにそう答えた紅は、人当たりの良い笑顔を浮かべた。
「こんにちは、お邪魔しています」
「あ、こんにちは」
狐の耳と尾を生やしている紅を前に、一切動じない彼を見れば、普通の人間ではないことは明らかだ。
思わず返事の挨拶をした彼は、紅の肩に居る悠希を見て、あ、と声を上げた。
「その狐…」
「…悠希が、何か?」
「悠希って言うんだね。いや、何かあったわけじゃないんだけど…うん、気にしないで」
何か思うところがあった事は確かのようだが、彼から聞きだすのは難しそうだ。
あえて、そうですか、と納得しておく。
そこで、自分たちに向けられている視線に気付き、顔の位置を正面に戻した。
「おかえり、リクオ」
「うん、ただいま。用があるなら、お客さんが帰ってからの方がいいよね?後でまた…」
「待て待て。用と言うのはこの子に関することじゃよ」
そう言った総大将が、いつの間にか紅の隣に居た。
その事実に驚く彼女の肩にぽんと手を置き、リクオを呼ばれた少年に向けて笑顔を浮かべる。
「うちに居候させることに決まったからの。年の近い者同士、仲良くするんじゃぞ!」
「「…はい?」」
いつの間に決まったんですか、と言う言葉は、とりあえず零れ落ちた声に押しのけられた。
もう一つの声の主であるリクオは、祖父の行動に呆気に取られている様子だ。
当然ながら、迷惑をかけられないと反対した紅。
しかし、理路整然と並べられた大人から助言に、齢十二歳の紅が最後まで反論することなどできはしない。
最終的には頷く以外の道など残されておらず、ぽん、と悠希に肩を叩かれ、漸く諦めた。
座布団の上で姿勢を正し、屋敷の主とその孫であるリクオを前に、深く頭を下げる。
「…よろしくお願いします」
異世界へと流されて6時間―――紅の衣食住が保障された瞬間だった。
09.08.06