黒に染まる、黒に染める
約束の一週間の最終日、鬼灯に用事があるという蓬と烏頭を連れて、執務室へと戻ってきた。
「どうせ私は無能なんです…!!」
部屋の中からそんな声が聞こえて、三人が足を止めた。
「お、修羅場か?」
「わくわくしないの」
「一週間目で限界か…紅さんの代わりなんて、頼み込まれたってやりたくないよな…」
執務室の扉は閉じているけれど、目の前にいれば中の声は聞こえてしまう。
配慮するならば立ち去るのが一番であるが、他人事ではないのでこの場で立ち聞きすることを選んだ三人。
視線で示し合わせて、言葉の続きを待った。
この一週間が、どれほど長く感じたことだろう。
初めのうちこそ、使えないな、こいつ、という視線だった。
しかし、半ばを過ぎる頃からは、視線の大部分は同情を含んでいた。
いっそ、役立たずと罵られた方がマシだったかもしれない。
「どうせ私は無能なんです…!!」
自分ができないことを棚に上げて怒るのは筋違いだ。
わかっているけれど、止まらない。
髪を振り乱してそう声を荒らげた彼女にも、鬼灯は冷静な視線を返した。
「いえ、あなたは無能ではありませんよ」
鬼灯の言葉に、二人の様子を立ち聞きしている面子の一部が「お?」と色めく。
もしや、鬼灯からのフォローが入るのか?と耳を澄ました。
「え…っ!!ほ、鬼灯様…っ!」
同じことを感じたのか、女鬼も目元に涙を溜めつつ、声に喜びを宿す。
「紅さんが群を抜いて優秀なだけです。あなたは平均的だと思います」
きっぱりとした鬼灯の言葉に、その場の空気が凍った。
状況を目の当たりにしていなくたってわかってしまう、その場の空気、重い沈黙。
「(鬼灯、それ褒めてない)」
「(そんなはっきり…)」
「(うわ…固まったぞ、あの子。そりゃそうだよなぁ)」
その先が続かず、沈黙のままに時間だけが過ぎていく。
これでは埒が明かない判断した紅は、壁に預けていた背中を放した。
「鬼灯、代わるわ」
沈黙が続く執務室の中へ、迷いなく足を進める紅。
鬼灯は彼女を見て、そして女鬼へと視線を投げてから、お願いします、と身を引いた。
元より、自分はこういうことに向いていないのだ。
「…さて、と」
鬼灯が離れ、紅が代わりに近付いてくる。
そのまま無言で机の上に並べられた一週間の成果に目を通す。
「―――うん。やっぱりね」
ビクリ、と肩を揺らしたまま、顔を上げられずにいる彼女には、紅の表情は見えていなかっただろう。
紅は机の引き出しから、一枚の書類を取り出して彼女の視界へと差し出した。
「はい」
「…異、動…?」
「あなたの今の部署で話を聞いてきたんだけど、どうも上司からの評価が良くないみたいね、あなた」
はっきりとそう告げられて、ぐっと唇を噛み締める。
紅の言っていることに間違いはない。
自分は、一日に何度も上司から「役に立たない」「無能だ」と言われているから。
それでも、そんな小言にも耐えて頑張ってきているというのに、こんなことを言われなければならないのか。
情けなさに涙がこみあげてくるけれど、泣いたら負けだと拳を握る。
「安心なさい。あなたの上司も私からの評価は底辺よ。ついでに指導してきたから、少しはマシになるでしょう」
「…え?」
「あなたはどうも数字が苦手みたいだけれど、地道な作業は得意のようだし、発想は豊かね。
だから、技術課に異動した方が、その特技を生かせると思うのよ」
機械弄りは苦手?と問いかけられ、呆然と視線を返す彼女。
指先は器用な方だし、機械だって嫌いではない。
心ここにあらず、といった様子で首を振る彼女に、紅は「良かった」と笑う。
「実のところ、あなたの書類…意図的なミス以外にも普通のミスも多かったわよ?」
「…え…!?」
「あら、気付いてなかった?本当に苦手だったのねぇ」
くすくすと笑う紅だが、その表情からは上司や他の同僚のような嘲りや呆れはない。
だからこそ、そうだったのか、と素直に受け止めることができたのかもしれない。
「この一週間であなたの居場所は作っておいたから、安心して得意分野を極めてきなさい」
あそこはそう言う連中ばっかりよ。
紅は彼女の手にあった書類を受け取り、枠の中にポンと印鑑を押して、彼女へと返す。
それからその小さな背中を押して、鬼灯の前へと立たせた。
「―――承認します」
震える手から書類を受け取り、紅と同じように印を押して返す。
「紅さんほど人柄を見抜く力はありませんが―――あなたの着眼点は嫌いではないですよ」
頑張ってください、と言われて、最後の砦が決壊した。
覚えていてくれたこと、認められたこと、色々な感情が溢れ出して、子供のように泣いた。
ありがとうございます、ごめんなさい。
嗚咽の中に含まれた心からの言葉に、紅は鬼灯と視線を合わせ、微笑む。
それから程なくして。
件の女鬼が技術課の濃いメンバーに揉まれてメキメキと頭角を現してくるのは、また別の話である。
「それにしても、あなたの先見の明にはつくづく驚かされますね」
「…全てにおいて、まずは相手を知る所から始めなさいと言われて育ってきたからね。情報収集は得意なのよ」
「彼女のお蔭で技術課の暴走が激減しました。素晴らしい働きです」
「それは本人に言ってあげたらどう?喜ぶわよ」
「いえ、最近は紅さんに心酔しているようですよ」
「あぁ、そうらしいわね。ほんと、単純な子」
「…と言いつつ楽しそうで、妬けます」
「ふふ…知ってるわ」
18.03.18