黒に染まる、黒に染める
熱いシャワーを身体に浴びて、ふぅ、と息を零す。
栓を締めれば熱い雫が止まり、余韻のようにポタリと数滴を落とした。
濡れた髪の水気を絞り、ドアを開いて近くに置いてあったバスタオルに手を伸ばす。
身体の水分をタオルで押さえてふき取ると、そのままくるりと裸体の上に巻いて浴室を後にした。
少しだけ体温の上がった身体は、そのまま服を着てしまう気にはなれない。
熱気を冷ますようにタオル一枚で部屋の中を歩きながら、ちらりとベッドに意識を向けた。
ベッドの上にあるのは、今日の服として用意していた黒いチャイナドレスだ。
紅は伸ばした指先でチャイナドレスを持ち上げた。
折りたたまれていたシルクが音もなく広がり、布地に隠れていた鬼灯が顔を出す。
黒地の上に緑の葉とオレンジの鬼灯が彩られたそれは、一目で上等な品であるとわかる。
紅は白い指先でするりと鬼灯をなぞりながら、このドレスを受け取った日のことを思い出した。
先に上がっていてください、と言われた通りに、紅は鬼灯よりも一足早く自室へと戻ってきていた。
夕食は外で取ると言っていたから、食堂には寄っていない。
「あとどれくらいで帰ってくるかしら」
何となく手持無沙汰になってしまったことに気付き、小さく呟く。
自分が終え、彼が確認すると言っていた例の書類は一抱えほどもあった
とは言え、基本的には全て自分が終わらせていた仕事であり、彼の役目は一通り、書類に目を通すだけである。
突き返されるような雑な仕事はしていないから、彼の処理速度を考えればさほど時間はかからないだろう。
そんなことを考えながら、鏡台の前に座る。
髪を結いあげていた簪を抜き、一日過ごして乱れていた髪に櫛を通す。
もう一度結い上げるか、それともこのまま流しておくか。
指先に髪を絡めながら逡巡し、うん、と頷いて髪を結いあげた。
そうする気分になったのは、以前、「うなじが綺麗だ」と褒められたことを思い出したからである。
彼の言葉一つで行動の理由付けをしてしまう自分が、少しだけおかしかった。
そうして化粧まで直し終えたところで、鬼灯が近付いてくるのを感じた。
漸く仕事が終わったらしい彼に、紅は椅子から立ち上がって部屋を出る。
部屋までわずか、という位置にいた彼に「お疲れさま」と声をかけた。
「お疲れさまです。…出られますか?」
「ええ」
「では、行きましょう」
鬼灯は近付いてきた紅の背を促し、廊下を歩き出した。
かなり高級であろう老舗の料理屋での食事が終わり、湯気立つ湯呑からお茶を飲む。
二人の仕事を終えてから入ったため、時間も時間だ。
忙しないけれど、と食事を終えて席を立とうとした紅を止めたのは、言わずもがな鬼灯である。
「まだ大丈夫ですよ」
「…そう」
そんなわけはないのだが、この部屋に誰かの気配が近付いてくるわけでもない。
そうした状況から、彼が何か伝えてあるのだろうと、それ以上は気にしないことにした。
彼の口数が少ないのは今に始まったことではない。
現に、彼はそれだけを言うと、また口を閉ざしてしまった。
座敷から見える庭の鹿威しの音以外、無音の時間。
しかし、紅は彼と過ごすこの沈黙を苦痛だと感じたことはなく、むしろ穏やかな時間の流れが心地よく感じていた。
「―――さて、紅さん」
「ん?」
眠りが近いわけでもなく、緩やかな時間に身を任せて伏せていた瞼を持ち上げる。
彼女の意識が自分に向けられたことに気付いた彼は、静かにそれを取り出した。
スッと音もなく卓上を滑らせ、紅の前へと差し出す。
「なぁに?」
眼差しで促され、伸ばした指先でそれを受け取る。
そして、贈り物として少しばかり華やかに飾られた封を解いた。
そこに鎮座していたのは、花飾りのついた簪だった。
紅はそれが簪であると理解すると、ほんの少しだけ目を見開く。
「…それを贈る意味は、伝わったようですね」
「―――」
「現世の方では指輪を贈ることが一般的ですが…我々にはそちらの方が明確かと思いまして」
そう言うと、鬼灯が席を立ち、紅の背後へと回り込んだ。
そうして迷いなく彼女の髪に挿してある簪を抜き取れば、長い黒髪がするりと滑り落ちた。
それを楽しむように二・三度、髪に指を通した彼は、器用に髪をまとめ上げる。
最後の仕上げと、紅が持ったままだった箱から簪を取り出し、きつくなり過ぎないように髪へと挿した。
「…器用ね、相変わらず」
「結い上げるのが面倒だから切る、と言ったのはあなたでしょう」
「あぁ…懐かしいわ。そんなことも言ったわねぇ…毎日のことだと面倒なのよ。乾かないし」
昔を懐かしむように目を細めた彼女は、くすくすと笑って姿勢を崩す。
トン、と背後にいる鬼灯の胸元に背中を預けた彼女を、その腕の中に抱き込んだ。
あぁ、やはり―――
「あなたの黒髪には桔梗の色が良く映える」
「ふふ、ありがとう」
昔、髪を切ろうとした紅を止めたのは鬼灯だった。
面倒だ、という彼女に、彼は「自分が結う」とまで言ってのけた。
そのときの鬼灯はまだ子どもで、もちろん、女性の髪を結うような経験はない。
見様見真似で結い上げようとした彼の所為で、髪の毛が絡まって大変だった経験も、今となっては良い思い出だ。
あのときはむしろ、髪を絡められた本人よりも、絡めてしまった鬼灯の方が慌てていた。
「ねぇ、鬼灯。私、500年も待たせてしまったわね」
「そうですね」
「それでも…まだ私は、あなたの妻でいてもいいの?」
「私の妻はあなた一人です」
その答えを聞いて、彼の腕の中で身体の向きを変え、額を胸元に預ける。
「―――両親に、結婚したと伝えてきたわ」
「…どうでした?」
「…気になる?」
「………」
「大丈夫よ。あの人たちは、私が望んだ相手なら誰だっていいの。おめでとう、と言われたわ」
幸せになりなさい。
そう言って微笑んだ母の姿を思い出す。
紅の故郷である魔界において、愛といった感情は重要視されない。
本能の赴くままに生きる妖怪にとって、そうした感情は理解されにくいのだ。
それでも、紅の両親はお互いを愛していたし、子どもたちを愛してくれた。
「―――憧れていたの、両親に」
いつか、自分もそんな風に想える誰かに出会えたらと―――そんな憧れは、紅だけの秘密だった。
まさか、随分と歳下の、子どもの頃を知っている子と、夫婦になるとは思わなかったけれど。
両親や兄弟に祝ってもらって、漸く自分の憧れが現実のものになったのだと実感できた。
「ありがとう、鬼灯」
少しだけ体を起こし、その腕の中で顔を上げ、嬉しい、と微笑んだ。
「―――」
「…鬼灯?」
「…少し、席を離れます」
「…どうぞ?」
鬼灯は苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せ、首を傾げる彼女の身体から引き剥がして立ち上がる。
そのままスタスタと座敷を出て行った彼は、ものの数分で戻ってきた。
「今日はここに泊まります」
「明日も仕事だけど…」
「早朝に戻りましょう」
「あ、はい」
「閻魔殿に帰る時間が惜しい」
翌日、早朝に閻魔殿の部屋に戻った紅は、そこで包まれたそれを渡された。
「今までのチャイナドレスは全て処分しましたので、今日からはこれを」
「はい?」
「サイズは問題ありませんし、処分したドレスと同数を用意しました」
「あぁ、なるほど。“鬼灯”、ね」
その意図が読めずに疑問符を抱きつつも一枚を開き、そこに刺繍された“鬼灯”を見て全てを察した。
19.07.14