黒に染まる、黒に染める
「これ、提出です。えっと―――」
「あ、受け取りま「こちらへ回してください」」
どちらに提出すべきなのか、と悩む獄卒に対して手を上げるけれど、その声すらも遮られた。
もうこれで、何度目だろうか。
とりあえず任されているのは書類の順番を並べ替えるような、本当に誰にでもできる作業だけだ。
はじめこそ、紅からの申し送りを傍らに業務に取り組もうとしたけれど、できるはずなどなかった。
「鬼灯様!あの…!」
「あぁ、もうお昼時ですね。休憩を取ってください」
「え、あ…じゃあ鬼灯様も、一緒に―――」
「午前の分の仕事が残っていますから」
いっそ清々しいほどに、何の希望も抱けない対応である。
このところ、鬼灯と紅が食堂で一緒に昼食を取っている光景を何度も目にしていた。
彼女の位置に立てば、それも夢ではないのだと思っていたのに。
「(私とは一緒にお昼を食べたくないってこと…!?でも、仕事が残っているのも、本当だし…)」
恐らくは、そのどちらも本当なのだろう。
こういう時に、仕事なら仕方ないか、ともう一つの理由に気付かないような暢気な性格だったらよかった。
気付いてしまうから、こうして苦しい思いをしなければいけなくなるのだ。
彼女が鬼灯に対して抱いているのは憧れである。
もちろん、異性としても素敵だと思っているし、もし彼に選んでもらえたら…そんな妄想だって、一度や二度ではない。
自分は馬鹿ではない―――わかっているのだ、彼が自分を選ばないことくらいは。
鬼灯が紅と並んでいる様子を見て、異性としての夢や希望は微塵もないのだと理解した。
けれど、どうしても。
憧れている鬼灯に、認めてもらいたかった。
―――この意見は悪くないですね。中々に良い着眼点です。
もう何年も前に、自分の出した意見に対して、鬼灯が零した言葉。
誰か出した意見なのかも、彼は知らないはずだ。
それでも、彼女の心の中にはずっと、その言葉が残っていた。
もう一度、もう一度でいいから、彼に認めてもらいたい。
その一度のためだけに、彼女はこれまでやってきたのだ。
「…お昼、いただきます…っ」
視線すら向ける暇もない鬼灯を残し、執務室を後にした。
その足で、唇を噛み、俯きながらトイレへと走る。
それからしばらくして、執務室のドアがコンコン、とノックされる。
返事を待たずに入ってきたのは、鬼灯が察していた通りの人物であった。
「やっぱり、お昼抜きでやってるのね」
「捌ききれないんですよ」
「うん、だろうなとは思ってたわ。ごめんね」
そう言って苦笑した紅は、持っていたトレーを鬼灯の机の脇に置く。
そこには、湯気立つお茶と、お手拭き、そしてお皿に並んだおにぎりがのせられていた。
「少しは食べないと。頭が回らないでしょう?」
「ありがとうございます」
漸くペンを机に置いた鬼灯は、凝り固まった身体をググっと伸ばす。
あちらこちらの関節が上げた悲鳴に、紅が笑った。
いただきます、と手を合わせてからおにぎりに手を伸ばす鬼灯を横目に、自分の机へと向かう。
「あの子はお昼?」
「はい。…向いていないと思います、正直」
「…そうみたいね」
一応、彼女が今までやっていた業務系のことしか申し送りには載せていないんだけど。
とりあえず出来上がっている仕事の内容にざっと目を通す。
「ふぅん…なるほどねぇ…」
「本当に一週間、出張するんですか?」
「ええ。とりあえず、できることは任せてあげて」
「(…三日目には徹夜になるな)」
「夜には手伝うから、ね?」
小首を傾げておねだりする様に笑う紅に、鬼灯は長く溜め息を吐く。
どういう落としどころに持っていきたいのかはわからないけれど、好きにしろと言ったのは自分だ。
渋々ながらもわかりました、と頷く鬼灯。
「ありがとう。あと、これ―――たぶん、必要になるから。目を通しておいて」
「…落としどころはここですか」
差し出された一枚の書類を、食事中なので受け取らないままに目を通す。
紅は、ここに入れておくわ、と書類を引き出しに片付けた。
「さて、と…じゃあ、私は行ってくるわね。また、夜に戻ってくるわ」
行ってきます、と頬にキスをして、引き止められるよりも早く部屋を後にする。
反射的に伸ばした手は彼女をつかみ取ることができず、無音で空を握りしめた。
「…まったく…」
唇が触れた頬を指先でなぞり、おにぎりの最後の一口を口の中へと放り込んだ。
18.03.18