黒に染まる、黒に染める
コツ、コツ、コツ。
静かな執務室に響く、小さいけれど耳に残る音。
靴音ではないそれは、紅の机から聞こえていた。
「――――…はぁ」
コツ、と最後の音を立てると、溜め息を吐きだす。
音の原因であったボールペンのキャップを外し、読んでいた書類の一部にビッと取り消し線を引く。
「何かありましたか?」
一段落したところで、同じ部屋の中で仕事を片付けていた鬼灯が問いかけた。
音くらいで集中力が途切れると言うことはないけれど、紅がこうして目に見えて苛立っているのは珍しい。
「あぁ、ごめんね。煩かった?」
「いえ、それは構いませんが…どうしました?」
「最近、細々としたミスが多くてね。どうにも、意図的に思えてならないの」
どうしたものかしらねぇ。
そう呟く彼女の横顔が、どことなく凶悪染みているあたり、それなりに頭にきているのだろうと察する。
普段の紅は手当たり次第に狂気を振りまくわけではないし、むしろ理性的である。
こうした一面が鬼灯に悪い印象を与えるかと言えばそうではなく、しめるべきところを締められない内気な性格よりは遥かに頼りになると考えている。
「記録の山の中に紛れさせれば、私が見落とすとでも思っているのかしら。…舐められたものよねぇ」
「…意図的、というのは?」
「私が処理する方に、あえて見つけにくい所にミスしてあるわ。こう何度も続けば、疑われるのも当然なのにね。よほど、私にミスさせたいらしい。やっていることは小さいけれど」
「―――それで、どうしますか?紅さんの好きにしていいですよ」
「好きに動いていいの?」
「ええ。多少の問題はあなた自身で解決できるように、第二補佐官に就いてもらっていますから」
「(………厄介ごとに丸投げしているとも言えなくはないけど)」
任せてもらえるというのならば、こちらとしても動きが取りやすいので文句はない。
それに、この人物と開始された時期などを照らし合わせれば、原因は自ずと知れるというものだ。
「じゃあ、技術課に一週間出張してくるわ!」
「…はい?」
「前から意見がほしいって打診されていたから、丁度いい」
そう言えば、そう言うことではない、とでも言いたげな視線を貰った。
しかし、紅はあえてにこりと微笑む。
「この子、鬼灯の補佐にあてておくわね」
「紅さん」
「私の地位に文句があるのならば、同じ仕事をやればいいのよ。―――できるものなら、ねぇ?」
「…結果の見えていることを…」
好きにしろとは言ったが、これは鬼灯が押し付けられたも同然だ。
元はと言えば紅が留守の間は自分一人でこなしていた仕事ではある。
しかし、彼女が戻ってきて、彼女がいることのありがたみを痛感する今日この頃。
今更、彼女なしの仕事には戻りたくないというのが鬼灯の本音である。
思い切り渋い顔をしている鬼灯に、紅がクスリと笑う。
グイッと伸ばした指で鬼灯の眉間の皺を押した。
「そんな顔をしないの。もしかしたら眠れる才能が開花するかもしれないじゃない?」
「本気で思っていますか?」
「まさか」
意図的なミスで他人を貶めようという器の小さな獄卒に、そんな才能があるとは到底思えない。
しかしながら、手口の巧妙さから、それなりに頭の良い獄卒であろうとは察しが付く。
紅が何かしらの理由で失脚すれば、自分がその位置に取って代われると、その程度には自分に自信を持っている者なのかもしれない。
「再起不能にしないであげてね」
「しようと思ったことはありませんよ」
その翌々日。
紅は宣言通りに技術課へ赴き、代わりに一人の女鬼が鬼灯のサポートに就く。
朝礼でその旨が伝えられると、閻魔殿で働く獄卒がざわめく。
「うわぁ…大変だな、一週間」
「何が?」
「紅様がいないってことは、紅様の仕事は全部鬼灯様がするんだろ?」
「あの子、身長低いなぁ。俺たちと同じくらい?」
「聞いてねぇ!」
普段、閻魔殿で働く獄卒は、紅の存在がどれほど鬼灯を助けているのかを知っている。
そして、自分たちもまた、彼女に助けられているのだ。
その実情を、身をもって知っているだけに、この一週間に対しては不安しかない。
「(何より鬼灯様が不機嫌…)」
朝礼の時点ですでに、鬼灯からは数日徹夜しているような危うい空気を感じる。
「では、仕事の内容はここにまとめてありますから。一週間、よろしくお願いしますね」
「はい!何でしたら、一週間以上でも大丈夫です!私が、鬼灯様をお助けしますから!」
私が、という部分を強調し、頬を紅潮させる女の獄卒。
彼女こそ、ここ数日、紅の仕事を小さく小さく邪魔していた獄卒である。
引き継ぎとは言えないようなやり取りの中で、紅は女鬼の返事ににこりと微笑むだけであった。
「おーい、紅ー。迎えに来てやったぞ!書類の提出ついでにな」
「あら、ありがとう。鬼灯は執務室よ」
「え!?」
紅の言葉に驚いて振り向くと、先ほどまでそこにいたはずの鬼灯が忽然と消えていた。
いつの間に!?と慌てて執務室へと駆け出していく女鬼。
そんな彼女を見送り、くすくすと笑う。
「自分の仕事をさせようだなんて、お前も悪いことを考えるよなぁ」
「あら、できるかできないかは、見てみないとわからないわよ?」
「お前なぁ…本気で言ってんのか?」
「ふふ…夢を見るのは自由だけど、誰に喧嘩を売っているのかは理解してもらわないと…ね?」
「そういうとこ、狐だよな、お前」
烏頭の言葉は、どこも間違っていない。
「さーて。書類提出ついでに鬼灯の様子でも見てくるかな」
「じゃあ、用意をしてここで待ってるわ」
紅の返事に「おー」と返す背中を見送らず、荷物を取りに向かうべく踵を返す。
彼らが何を話すのかは知らないけれどきっと、鬼灯を苛立たせて来るのだろう。
そんなやり取りを想像しながら、自室へと向かって歩き出した。
「鬼灯!紅を一週間借りるぜ!」
「ええ、わざわざ紅さんの方に申請をしてくれていたらしいですね、わざわざ」
「おぉ…眼だけで殺されそうだな…。まだ一日目だぞ、一週間の」
18.03.09