黒に染まる、黒に染める

「薬…ですか」
「そう、薬。ワシの腰痛のね」
「…それって、白澤さんの所の薬では…」
「うん、そうなんだよね。鬼灯くんは視察に出てるから紅ちゃん時間あるでしょ?」
「いえ、仕事は山のようにあります」

片付きますけれど、と呟きながらちらりと視線を向けた先には、数時間の間に積み重なった書類の山がある。
ちなみに、今まで紅が居なかった間の癖が抜けず、鬼灯は仕事の大多数を片付けてから視察に出た。
あそこにあるのは、彼が出て行ってから溜まったものである。

「相変わらず仕事熱心だよねぇ、君たち二人は」
「大王も真面目になさらないと、鬼灯が帰ってきてからが大変ですよ」

やんわりと諭すが、そうだよねぇ、なんて言いながらも手は止まったままだ。
この人は鬼灯に怒られることが好きなんだろうか―――少しだけ、そういう風にも思えてしまう。

「それで…薬というのは、今でないと困るものなのですか?」
「残りがちょっとなんだよね。紅ちゃんも戻ってきてから働き詰めだし、天国で息抜きでもしてきたら?」

薬はついでで構わないから、と笑う閻魔大王の朗らかなこと。
要するに働き続ける自分に気を使ってくれているのだと気付いた紅は、返事に困った。
大王の親切を拒み続けるのもどうかと思うけれど、しかし。

「それ、鬼灯には話していないですよね?」
「うん。鬼灯くんが出発してから思いついたから」
「(この人は鬼灯がどう反応するか、わからないのかしら…長い付き合いなのに…)」

そうでなくとも、不必要に白澤が営む『極楽満月』には近寄らないよう言われている。
白澤は女好きで有名であり、紅もその例外ではない。
加えて、白澤と鬼灯の間の確執は根深い。
そのこともあって、紅が白澤と言葉を交わした機会と言えば、ないに等しい。
紅の認識からすれば、鬼灯のことを除けば、名前を知っているだけの知人程度の位置付けである。

「…大王からの提案だと言いますよ?」
「うん、もちろんだよ!ゆっくりしておいでよ」
「…ありがとうございます」











女好きとして通っている白澤であるが、彼氏持ちや人妻には手を出さない。
であるにも関わらず、顔を合わせる度に口説かれる原因は、二人の関係を公言していないからである。
新婚でもあるまいし、出会う人間みなに言う必要性を感じていなかった、というのが二人の共通認識だ。
先日の婚姻届けの一件により、地獄では鬼灯が既婚者であったという事実が漸く広まり始めたところである。
鬼灯を狙っていた女鬼たちが、噂を聞いてあちらこちらで悲鳴を上げたというのは果たして事実だろうか。
流石にまだ天国まで届くほどではないだろうと察し、紅は溜め息を吐き出した。

「まったく…閻魔大王も人が良いんだけどちょっと考えが足りないわよね…」

怒れる鬼神を宥めるのは誰だと思っているのだろうか。
そう思いつつも断固として拒否しなかった当たり、紅もそろそろ休みたいと感じていたことは事実である。
そうしている間に、件の『極楽満月』が見えてきた。

「鬼灯の部屋で多少慣れているけれど…相変わらず、ここは薬臭い…」

同じ類の臭いのはずなのだが、慣れているかどうかで感じ方が異なるのだから、人の身体は現金だ。

「こんにちは、お久しぶりです」

薬局の傍らで薬草を積んでいるらしい兎に気付き、腰をかがめて挨拶をする。
ごくごく普通の兎に見える彼・彼女らが薬剤師だというのだから、天国も不思議なところだと思う。
そのとき、ガラガラ、と薬局の引き戸が開いた。

「あ、お客さんですか?」
「初めまして」

屈めていた身体を起こし、営業スマイルでにこやかに話しかける。
白澤の所に居れば、女性の顔を見る頻度と言えばそう少なくはない。
そんな女性の中でも一握りに入るであろう容姿端麗な女性を前に、桃太郎の心が躍った。
しかし、その一瞬後にはこの女性の目的が白澤であろうと察し、若干の妬みを覚える。

「白澤様でしたら―――」
「あら、もしかして、例の桃太郎さんですか?」
「…え、例の…?」

というのは、どの例のことだろうか。
鬼を退治した桃太郎の話であれば、まぁ良い。
しかし、少し前の地獄の一件の事であれば、できれば忘れてほしい過去である。

「鬼灯から話は聞いています」
「………忘れてください、心を入れ替えました…」

にこりと浮かんだ文句のつけようもない笑顔にすら心を抉られる。
思わず涙しそうになった桃太郎の傍らで、紅は不思議そうに首を傾げた。

「鬼灯は、“あの白澤さんの所で働ける優秀な忍耐力の人物だ”と言っていましたよ?」
「え?あ…そうなんですね」

自分の知らぬところで褒められていたらしい。
自分が思い浮かべたどちらの桃太郎の話でもなかったのだと理解した。

「閻魔大王の薬をいただきに来ました。白澤さんは中だと仰っていましたね」
「あ、はい。どうぞ。えっと―――」
「あぁ、失礼しました。紅と申します。薬の勉強、頑張ってくださいね」

最後に笑顔を一つ残し、促されるままに店の中へと入っていく。
桃太郎は魂を抜かれたようにぼんやりとしていたが、兎に突かれて我に返ると、薬草取りに向かって歩き出した。









店内にはたくさんの薬草など、薬の材料が吊るされたり棚にしまわれたりしている。
この店に足を踏み入れたのはこれが三度目だっただろうか。
古い記憶の中にある店とそう変わらない様子に、何となく視線を向ける。
店主である白澤の姿はなく、どうやら店の裏へと姿を消しているらしかった。
会わずに済むならそれが一番だったのだが、薬を勝手に持ち出すわけにもいかないし、場所もわからない。
もしかすると桃太郎から受け取ることができたのだろうかと、今になってから気付いた。

「…ごめんください」

後の祭りだな、と思いながら、店の奥に届くように声を上げる。
すると、店の奥からガタン、ゴトン、と何かが倒れたりするような音が聞こえてきた。
それに続いて、バタバタと足音が近付いてくる。

「紅ちゃんの声がした!!」

勢いよく飛び出してきた白澤の姿に、紅は隠すこともなく表情を引き攣らせた。

「白澤さん…正直、引きます」

残念ながら、紅には自分の第一声だけでそれを判断して駆けつけてくる姿にときめく純粋さはない。
実にわかりやすく引いている彼女を前にしても、白澤の心は折れない。

「この500年、一度も見なかったから心配したよ!どこに行ってたの!?」

月に何度も顔を合わせるような親しさではなかったはずなのに、この反応である。
ガシッと両肩を掴まれるけれど、その手つきは優しく、流石は女好きというべきか。

「…ご無沙汰しています。少し里帰りをしていましたので―――というか、離れてもらえませんか」
「えー?どうして?久しぶりの再会なんだし、これを機に仲良くしようよ」
「女性の匂いが酷いです。人の姿を取っていても感じるほどって…」

最早、隠す気もなく嫌悪感を露わにして外出用のストールで鼻や口元を覆う。
あぁ、ごめんね、なんて言いながら店の窓を開けた彼は、少し待つように言い残して裏へと歩いて行った。
店の奥から女性の声や何かを叩く乾いた音が聞こえ、思わず溜め息を吐き出す。

この人は、本当に―――全く、微塵も変わらない。

やがて、開け放たれた窓の向こうに肩を怒らせながら歩いていく女性の背中が見えた。

「ごめんね、お待たせ」
「………あなたは本当に変わりませんね…」

あの僅かな時間で服を着替えてきた彼の頬についた見事な紅葉に、心底呆れた言葉を返した。

17.11.03