黒に染まる、黒に染める
机の引き出しに入っていたはずのペンを取り出そうとして、白い紙に目を止める。
裏面がこちらを向いているそれをひらりと取り出し、表面を見下ろす。
既に、相手の枠も、自分の枠も埋まっているそれ。
手渡すタイミングを逸してしまった、と反省の溜め息を零しつつ、数日前の事を思い返した。
鬼灯の印鑑が必要なものと、そうではないものと。
そうして分類わけした書類の中でも、今度は締め切りの近い順に並べていく。
中には鬼灯ではなく紅の記名で事足りる書類もあり、それらもより分けておく。
自分が留守の間は、これが全て鬼灯の元へと運ばれていたのだ。
彼は、眠る暇があったのだろうか―――そんなことを考えてしまうのも、無理はない。
軽い里帰りのつもりだった。
もう長い間、この地獄で彼と共に生活をしていて、ふと故郷を懐かしく思ったのだ。
それが作用したのか、はたまた別の要因があったのかは知らないけれど、見つけてしまった次元の歪み。
何かを考えるよりも先に、そこに足を踏み入れていた。
帰れるだとか、帰れないだとか。
そう言うことに気付いたのはすでに故郷に帰ってからで、そこからも「まぁ何とかなるだろう」と。
一度と言わず二度つながった世界なのだ、縁があれば帰ることはできると感じていた。
5か月の間、何度もこちらの世界の事を思い出していたかと言えば―――答えは、否。
鬼灯にも話したように、紅はそれなりの地位にいた。
留守にしていたことについても上司から小言を言われ続けたし、仕事も山のようにあった。
その中で、もう二度と故郷に戻らないつもりで色々と片付けてくるのは中々に骨の折れる作業だったのだ。
金魚草に興味を示した父の研究に付き合うのも、それと同じくらいには大変だった。
ある程度、先の見通しが立った頃、三度見つけた次元の歪み。
やはり、後先を考えることなく、その時が来たらとまとめていた荷物だけを持ってその中に飛び込んだ。
そんなことを考えながら、一枚の書類に手を止める。
内容にザッと目を通すと、傍らで同じく書類を山のように積んだ机の前に座す鬼灯を振り向いた。
「………鬼灯、これは?」
「…あぁ、それ。書いておいてください。あなたが不在の間にそういう制度になりましたので」
「…え、今更…要る?」
「何事も形は重要ですよ。況してや、お互い立場ある身ですから」
淡々と、それが当然であると語る彼は、仕事の手を止めない。
相変わらずの仕事の鬼だな、と思いつつ、手元を見る。
書けと言われれば、書くこと自体はやぶさかではないけれど。
「書かない、って言ったらどうする?」
ピタリ、と彼の手が止まった。
ついでに空気も凍り付いた気がして、自分の失言、もとい地雷であったと気付く。
「書かない、と?」
「無表情で金棒を撫でるのはやめようか、鬼灯」
彼の金棒が避けられないわけではないし、彼が本気で攻撃を仕掛けてくるとも思わない。
だが、動かない表情筋と金棒を撫でる仕草を見ていると、少しばかりの不安を持つのも無理はない。
「そうじゃなくて…それだけなのかなって」
「…それだけ、とは?」
「他に、何か言うことはないの?」
制度だとか、形だとか、立場だとか。
そう言うことではなく、言うべきことがあるだろうと。
楽し気に目を細める紅に、鬼灯は沈黙した。
「わかりました。では、それは渡しておきますから、先に仕事を片付けましょう」
「あら、いいの?」
「あなたの求めに応じるには、こちらとしても準備が必要です」
そう言いながらも仕事に戻る彼。
紅が求めたのは所謂“言葉”なのだが、彼は何を準備してくれるつもりなのだろうか。
まさか、彼に限って心の準備が必要だなんて言わないだろう。
疑問は解決しそうにはないけれど、どう転んだとしても何かが見られることは確かなのだ。
とりあえず、と手に持っていたそれを見下ろす。
そして、机の上に転がっていたペンを手に取ってから、もう一度鬼灯を見た。
彼は先ほどと変わらず書類に目を落としていて、こちらを見ている様子はない。
その視線がこちらに向けられる前にと、空白欄に手早く、けれども丁寧に記入する。
それを、くるりと裏向けてから、机の引き出しに片付けた。
彼に手渡すのは、全てを見届けてからで十分だろう。
「―――さん、紅さん」
「!!ご、ごめん!」
何度か声を掛けられていたのだろう。
一際大きなそれが聞こえ、紅はびくりと肩を揺らした。
その拍子にぴょこんと飛び出した狐耳が何とも空気を和ませる。
問答無用で撫でてくる鬼灯の手から逃げずに、彼女は彼を見上げた。
「書類、出来ている分があれば預かりますが」
出来ているんですか?と言いたげな視線である。
彼にそう思わせるほどにぼんやりしていただろうか、と思いながら、処理済みの山を指さした。
鬼灯はその一枚を手に取り、正しく処理されていることを確認して頷く。
「では、そちらと一緒に預かりましょう」
「………そちら?」
「既に記入済みのようですから」
そういうと、彼は紅が握りしめたままだった一枚のそれをピッとその指から抜き取ってしまう。
自分の手を離れたそれに気付き、あ、と瞬きをする紅。
「鬼灯、あの…」
「紅さんの希望はありますか?」
声を遮るように問いかけられた質問の意味は、彼が指さす空欄で理解できた。
「お香かなと思っていたけれど」
「…そうですね。では、もう一人は大王で良いでしょう」
「うん、そうだね。って、そうじゃなくて」
「今日はもう上がってください。私も、これだけ確認したら上がります」
そういうと、受け取った一枚を頂点に載せて、処理済みの山を持ち上げて歩いて行ってしまう。
相変わらず人の話を聞かない…と肩を落としつつも、慣れている紅は机回りを片付け始めた。
「ああ、夕食は外で取りますから。食堂にはいかないでくださいね」
「はいはい。どこへなりと、鬼灯の予定に付き合うわ」
このときはまだ、何が待っているのかなんて知らなかったけれど。
「おはよう、鬼灯くん」
「おはようございます、大王。仕事の前にこちらに記入をお願いできますか?」
朝一番に閻魔大王の元へと歩いてきた鬼灯が、ズイッとそれを差し出した。
「何々―――って、鬼灯くん!!これ婚姻届だけど!?」
「はい」
「え!?紅ちゃんと結婚するの!?いつの間にそんな話に…!!」
ワシに相談もなく…!!と嘆く大王の前で鬼灯が口を開いたところで、紅がやってくる。
「おはようございます、大王」
「あ、紅ちゃん!!どういうこと!?」
「どういう…?あぁ、それですか」
ワシ、初耳だよ!?との声に、紅はきょとんと鬼灯を振り向く。
「鬼灯、言ってなかったの?」
「必要性を感じていませんでしたので」
「あら…それは驚くわ。道理でお香まで“漸くなのねぇ”なんて言うわけだ」
昨日は証人欄の記入を頼んだとき、お香はそう言いながら嬉しそうに署名をしてくれた。
どうやら仕事が忙しかったらしく、また話を聞かせてね、と慌ただしく去って行った彼女を思い出す。
色々と説明が必要になりそうだ…紅は肩を竦めた。
そんな紅の隣で、鬼灯が大王を見上げる。
「結婚するというか、結婚していました。本人不在のために制度変更時に届け出ができず、今になりました」
「いつの間に!?」
「…いつ…だっけ…?」
「少なくとも、ここで働き始める前には」
「制度がはっきりしてないから、神様への誓い代わりにイザナミ様にはお伝えしていますよ」
「彼女は知ってたのか!!」
知らなかった…と言いつつも、空白を埋めてくれるあたりに人の良さを感じる。
そんなことを考えつつ、仕上がったそれを彼から受け取り、鬼灯に手渡した。
紙面を一瞥して歩き出した彼を見送り、始業前にそれを出しに行くのだろうと察する。
その間に少しでも今日の仕事を把握しておくか、と踵を返した紅の背中を見て、あ!と大王が声を上げる。
「紅ちゃん、それ…一目瞭然だね」
その黒いチャイナドレスの背面には、裾から腰部にかけて鬼灯をあしらった美しいデザインが施されていた。
この地獄にいて、そのデザインを見て彼を思い浮かべないものはいないだろう。
「…ええ、自己主張が激しすぎる気もしますけれど」
そう言って困ったように、けれども頬を染めて嬉しそうに笑った紅。
彼女の結い上げられた黒髪の中で、桔梗の簪がキラリと光った。
17.10.20