蒼と白の縁を結ぶ
薄桜鬼 05
「くっ…まさか私が撒かれるとは…」
京の町を人目に触れぬ速さで走り抜けながら、不覚だった、と奥歯を噛む。
悪目立ちしないようにと町娘と変わらない姿であったことが仇となった。
その背中を捉え、少しの間追い続けたが、いつの間にか気付かれていたらしい。
ほんの少し隙を見せたその瞬間、男は鈴蘭の眼前から消え失せていた。
しかし、鈴蘭にとっては早々に男を逃がしたことは失態ではあるが、大きな問題ではない。
そんなことよりも、彼女が疾風の如く駆ける理由は別にある。
「…紅様…!」
鈴蘭が隙を見せたのは、紅の気が揺れた所為だ。
彼女がそうして気を乱すことは珍しい。
何かが起こったことに間違いはなく、消えた男を追うよりも紅の元へと馳せ参じることを優先した。
そうして借宿が見えたところで、強く屋根を蹴って開け放たれたままの部屋の窓辺へと飛ぶ。
「紅様!!」
ご無事ですか!!と勢いよく転がり込んだその場所に、彼女はいた。
髪を乱し、息を乱し、着物を乱し。
そうして自らを守るように畳の上で身を縮め、襟元を握りしめるその姿に鈴蘭は呆然とした。
この僅かな間に、主の身に何が起こったと言うのか。
未だに止まらぬ涙で頬を濡らし、唇を噛み締める紅にかける言葉が見つからない。
しかし、ハッと我に返った鈴蘭は紅の元へと駆け寄る。
「紅様、どうされたのですか!?」
まさか、悪漢にでも!?と危惧したものの、部屋の中は美しく整頓されたままだ。
ただ、紅だけが全身を乱し、その場で涙を流している。
「紅様…」
「だ、いじょうぶ…ごめんなさい、少し…取り乱してしまって」
徐々にではあるが息を整えた紅は、そう言って安心させようと微笑みを向けた。
「お帰りなさい、鈴蘭」
「…ただいま、帰りました…っ」
いつもと変わらぬ、鈴蘭を迎える優しい言葉。
自分が不在の間に、主に何かが起こったことは最早疑う余地もない。
それでも、忘れることなく向けられる言葉に感極まったように声を詰まらせる。
「…紅様、何があったのですか?」
紅の息が整うのを待ち、鈴蘭はそう問いかけた。
居住まいを正した紅は彼女の問いかけに少しだけ悩む。
「…鬼は二人いたの」
「………まさか、おひとりで白月の鬼に接触したのですか!?もしや、白月の鬼に何か…!!」
「は、話が早いわね、鈴蘭。でも何かをされたわけではないのよ」
落ち着いて、と激昂寸前の彼女を諫める。
紅の中に明確な変化を齎したけれど、彼が何かをしたわけではない。
そこはきちんと正しておかなければ、後々に影響を及ぼしかねないことを理解していた。
「…何故、黙っていたのですか?」
「………何故…かしら。私の結界に気付いたあの人に、興味を抱いてしまったのかもしれないわ」
「気取られたのですか?紅様の結界を」
鈴蘭が驚くのも無理はなかった。
今まで例のないことであり、尚且つ相手はそれを知らぬ白月の一族の者だ。
紅は苦笑いと共に指先で湯呑をなぞり、頷いた。
「して、白月の鬼とは言葉を交わしたのですか?」
「――――」
―――鬼、か。
―――あなたも………鬼?
言葉を交わしたと言えるのだろうか。
しかし、それ以上の何かが二人の間には存在していた。
言葉以上の、否、言葉を無用とする何かが、そこにあった。
「ねぇ、鈴蘭…?」
「はい」
「私がもし…白月の、鬼を……」
白月の鬼を、選んだのなら。
続く言葉を紡ぐことを躊躇う内に、くらりと視界が揺れた。
「紅様!」
咄嗟に紅を支えた鈴蘭は、彼女の状況を正しく理解していた。
紅の白い手を取り、グイッと自らの首元へと押し当てる。
「この時間帯は人目があり、すぐに用意はできません。私の生気を」
「…ごめんなさい」
このままではいけないと、躊躇いながらも鈴蘭の生気を食らう。
ゆらりと揺れる鬼火を眺めながら、動ける程度に調節することだけを意識する。
そうしなければ、飢えた身体は彼女の生気の全てを食らいつくしてしまうだろう。
もっとと欲張る指先を強引に引き剥がし、飢えを誤魔化すように湯呑の茶を呷る。
そうしている間に鈴蘭は続きの部屋に布団を敷き、紅をそこへと促した。
「日が落ちたら食事を用意します。それまでお休みください」
「ありがとう。鈴蘭、あなたも」
「わかっています。ちゃんとお渡しした分の食事は済ませてきます」
鈴蘭は紅が人から鬼に変えた。
それ故に、彼女は紅のように生気を食らうのではなく、そのままの意味で人間を“食らう”。
それが本能であり、生きる術であることは紅も理解しているが、複雑だ。
そんな彼女の心境を理解し、鈴蘭は彼女の知らぬところで食事を済ませてくる。
「…どうか、気を付けて」
「はい。必ず紅様の元へ戻ります。…失礼いたします」
そういって深く頭を下げると、続きの襖を閉ざす。
「(…日が落ちたらできるだけ早く人間を捕らえなければ…私には生気の濃淡が分からないのが悔やまれる)」
湯呑を片付けながら、先ほどの彼女を思う。
彼女がこうして飢えにより体調を崩すことは少なくはないが、これほどに急激な変化はあまりない。
紅自身がある程度の自覚をもって自らを管理しており、また鈴蘭が目を光らせているからだ。
鈴蘭がこの宿を飛び出す前の様子を見る限りでは、限界はまだ遠かったはずである。
「(…やはり、白月の鬼に何か…?いや、もしそうだとしても、紅様が庇い立てする理由はない)」
何かが引き金になったことは明らかだが、その原因がわからない。
やはり、鈴蘭が彼女の元を離れたあの時なのだろうか。
しかし、そうであったならなぜ彼女は鈴蘭にそれを告げようとしないのか。
「(…紅様は何を仰ろうとしたのだろう)」
私がもし、白月の鬼を―――この続きが、原因を知る手掛かりになるのだろうか。
閉ざした襖を見つめ、その奥に眠る紅を思う。
16.12.25