蒼と白の縁を結ぶ
薄桜鬼 04
風間はその日、供を連れることなく単身で京の町へと繰り出していた。
何かを目的としていたわけではない。
その目立つ容姿で人々の視線を攫いながらも、彼自身は何かに目を止めることもなくゆったりと地を進む。
この先数日は、藩からの要請もなく、自由な時を過ごすことができる。
酒の一つも買って宿に戻るか―――少し先に見えた酒屋の店先に視線を向け、そんなことを考えた時だった。
「!」
ザワリと全身を撫でていく気配。
不自然なく周囲に視線を投げるも、道行く者はだれ一人として何かに気付いた様子はない。
恐らくは、風間が鬼であるが故―――いや、鋭い感覚を持つ彼であるからこそ気付いた。
目には見えない何かの存在を、確かに捉えた。
そして、風間もまた、その何かによってその存在を捉えられた。
この時初めて、二人は互いの存在を認識したのだ。
ガタン、と脇息が揺れた。
「紅様?」
案じるような鈴蘭の声に答えを返さず、紅はとある方角を振り向いた。
窓の向こうの景色に何ら変化はない。
初めて結界を張ったあの日から、日に何度か結界を広げた。
そんな中、初めてそれに引っかかった気配。
「…見つけたわ…鬼の気配」
「!どちらに」
即座に飛び出す準備を整える鈴蘭に、紅は少しだけ沈黙した。
そうして、程なくして距離と方角を告げたのは、その位置に何があるのかを、まだ把握できていないからだ。
「姿を確認し、すぐに戻ります。紅様はどうぞこちらで」
記憶の中の地理から気配の場所の大よそを特定した鈴蘭は、そう言葉を残してその場から消えた。
彼女の気配が遠ざかるのを感じ取りながら、音もなく立ち上がる紅。
「…鬼が二人…」
片方の気配には、存在を気取られた。
紅もまた、お互いの感覚が結び付いたのを、確かに感じ取ったのだ。
鈴蘭に告げたのは、もう一人の鬼の居場所。
一方の気配は、あの瞬間からゆっくりと移動を始めていた。
既に結界は解いている。
本来であれば、いくら感覚の鋭い紅であろうと気配の鬼を追うことは困難だ。
しかし、その主はまるで、紅をどこかへと誘い出すように、確かな痕跡を残している。
導かれるようにして、京の町中、寂れた路地を抜けて―――
人気のないそこに、一つの背中を見つけた。
黒を基調とした着流しや上に纏う羽織だけで、その家柄の高さを感じさせる。
当の昔に紅の存在に気付いているはずのその背中は、焦ることもなくゆっくりと振り向いた。
さわり、と吹いたそよ風に金糸の髪が躍る。
「―――鬼、か」
低い声が耳を通り、背筋に何かを走らせた。
ゾクリ、と表現すべきなのか、ザワリ、と表現すべきなのか。
薄墨の中に落とした一滴の色のように、はっきりと刻まれるその存在感。
名前のつかない感覚に、細胞が震える気がした。
「あなたも………鬼?」
現実であるのに、まるで夢の中にいるかのような現実感のない時間。
足元からゆるりと持ち上げられた赤い眼が、やがて紅の姿を捉える。
まるで、着物も何もなく素肌を視線でなぞられるような感覚。
全てを丸裸に暴かれてしまうようなそれに、紅は身震いした。
ドクン、ドクン、と心臓が大きく鼓動する。
―――あぁ、“これ”は駄目だ。欲しくてたまらない。
紅は咄嗟に自らの口元を手で覆った。
そうしなければ、何を口走ってしまうかわかったものではない。
これほどに距離をもって対峙しているにもかかわらず、飢えた鬼の本能がそれを察知してしまった。
紅にとっての“至上”がそこにある、と。
美しいと感じた。
風間自身、他者からそう評されることは多い。
そう言った事柄に慣れている彼ですら、一目見た彼女をそう感じた。
姿形は人でありながら、その気配や匂い―――五感が彼女の“鬼”を感じ取る。
自らとは異なる種の鬼であろうことは薄らと感じるが、それすらもこの場においては些末事であった。
鬼は格式や名分を重んじる。
人のように見境なく見目に惑わされて心を移すようなことはなく、自らの番は本能が知っている。
幼少の頃より鬼とは“そういう者”なのだと聞かされていたけれど、それを真に理解したのはこの瞬間だった。
見目だけが麗しい女鬼は少なくはなく、現に風間の周囲にはそう言った女鬼が溢れていた。
女鬼としての生来の素地に加え、西の頭領の妻と言う地位を得んがために作為的に磨かれた美しさだ。
しかし、それらに彼の本能が動かされることはなかった―――故に、彼は知らなかったのだ。
番を決めると言うその意味を。
「―――なるほど」
近付こうとしない、近付くことができない彼女を横目に、彼は小さく笑う。
これは中々どうして抗いがたい、否、抗う必要性を感じることすらない本能だ。
最早、魂に刻まれていると言っても過言ではない。
これを手に入れるためであれば、自分は何でもするのだろう。
そうしてそれが、自らの独り善がりではないこともまた、はっきりと理解した。
彼女が“近付くことができない”理由も、間違いなくそこにある。
ほろり、と涙が零れ落ちた。
哀しいわけではない。
自らの感情をどう御すればいいのかわからず、恐怖すら覚える。
紅は自身の肩を抱き、声もなく涙した。
ザリッと地面を踏む音が聞こえ、びくりとその肩を揺らす。
一歩、たった一歩の距離が縮まっただけで、心が震えた。
怯えるように身を引き、やがて彼女は彼に背を向けて駆け出す。
外聞も何もなく、ただその存在から逃れるべく風のように駆ける。
その気配は瞬く間に遠のき、やがて風間の意識の外へと逃れた。
彼はそれを追うこともなく、ゆったりと足を進めて彼女が立ち竦んでいた場所に立つ。
その場に身を屈め、彼女が落としていった簪を拾い上げた。
あの様子であれば、これを落としたことにすら気付いていないのだろう。
「鬼門の一族か…」
一族の古い者から話には聞いていた。
同じ鬼でありながら種の異なる鬼―――鬼門の一族。
主に東の人里離れた樹海の奥に住むと言う鬼門の一族を見た者は多くはない。
しかし、風間の里では一族を抜けてきたと言う鬼門の鬼を保護した記録がある。
風間の遠縁の鬼と番い、数人の女鬼を産み落としたが若くしてこの世を去った。
その女鬼の出生率を鑑みて、鬼門との混血は鬼の血を繋ぐ上で救いになるかもしれないとの考えもある。
それを踏まえてなお、長老らが全面的に受け入れることができないのは、古きを重んじる鬼の性であろう。
「風間」
「…天霧か」
「少し報告が―――どうしました?随分と機嫌が良い」
「ああ…見つけた」
何をとは言わなかったが、天霧と呼ばれた男はそれを察したようだ。
自らの持つ報告が、彼が“見つけた者”に関することを感じていたのかもしれない。
そうですか、と多くを語ることなく宿への帰路を促した。
16.12.25