蒼と白の縁を結ぶ
  薄桜鬼  02

鈴蘭からの報告を読みながら、ふと感じた眩暈に思わず額に指を添える。
これが飢えの前兆であるということは、嫌というほど理解している。

「…やはり薄かったのね」

本来であれば、あと一週間は飢えを感じることなどない。
とんだ外れを引いてしまった―――脇息に腕を預け、深く息を吐く。
そうして穏やかな呼吸を繰り返せば、やがて微かに感じていた眩暈も消えた。

「紅様、お茶をお持ちいたしました」

襖の向こうからかかった鈴蘭の声に、ハッと姿勢を正す。
こんな姿を見られてしまえば、すぐに“食事”の用意を整えようとするだろう。
入室を促す声をかければ、慣れたように紅の傍まで湯呑を運んでくる。

「先日の白月の一族の件ですが…。京の旧い一族を辿ることができました」
「…遠いわね」
「江戸に近い東の一族は、すでに人の手により絶えたようです。西の一族については今、部下に探らせています」
「…雪村は、滅びていたの…。あそこの直系には女鬼が生まれたのに…」

雪村の頭領とは、馴染があった。
影を覚えたばかりの頃、白月の一族を知るためにと訪れた先で、頭領とその妻に世話になったのだ。
あれは、男女の双子が生まれて間もない頃だったと思う。
そっと指を握ってきた小さな手の感触が今でも記憶の片隅に残っている。
人の手により滅びたという雪村家のことを思うと、一族は違えど心が痛んだ。
かつて、鬼門もそうして滅びたのだ。
生き残りが細々と血を繋いだ結果が、今の紅たちへと通じている。

「―――京に行くわ。その一族の長にお会いしなければ、協力は得られない。…私が行かなければ」
「蒼龍が里を離れることに、賛同は得難いかと」
「そうね」

肯定の言葉を返しつつ、紅はその続きを答えない。
しばしの沈黙―――鈴蘭は、彼女の胸の内を理解した。

「長い説教を聞くことになりそうですね」
「相応の成果を持ち帰ればそう煩くは言われないでしょう。それに…少し、後ろ盾を得ておきましょうか」
「…あの方の元へ行かれるのですね?」
「ええ。あの方の賛同があれば、長老たちもそうそう煩くは言えないでしょう。
それから…私にもしものことがあれば、里を導いていただけるようにお願いしてくるわ」

そうと決まれば、と重い腰を上げ、着物の帯に手をかける。
心得ているとばかりに紅の後ろを取った鈴蘭が、静かに手を貸した。
それから数刻―――装いを新たにした紅は一人、樹海の奥へと向かう。


















江戸から京への道は遠い。
人里離れた山林を歩く時には、木々の枝から枝へと飛び、まっすぐ進んだ。
そうして山林にて露宿することもあれば、人里に下りて宿を取ることもあった。
数日を経て、紅と鈴蘭がようやく辿り着いた京の町。
命令により方々へ足を運ぶ鈴蘭にとっては馴染でも、里を離れる機会が殆どなかった紅にとっては目新しい。
節度を持って、けれどどこか軽い足取りの紅に、鈴蘭は少しだけ微笑んだ。

「紅様、まずは宿を確保いたしましょう」
「そうね。暫くは滞在することになるでしょうから…町の中心からは外れた場所がいいわ」
「存じております。こちらへ」

そうして鈴蘭に促され、京の町中を進んでいく。
彼女が案内したのは、長く続いているであろう宿だった。
建物自体は古く、けれど格式を感じさせる佇まいだ。

「ひと月、こちらの部屋を借りる段取りを致しました」

女将に連れ添われて通された部屋は、狭さを感じさせない続きの二間だ。
障子の開かれた窓からは、午後の柔らかい日差しが挿し込んできている。
淹れられたばかりのお茶を片手にくつろぐ時間は、道中の疲れを癒してくれた。

「紅様」
「ええ。私はこの宿で大人しくしているから」

何を言わなくてもわかっている、と頷けば、鈴蘭は紅の傍を離れた。
やがて、窓から見下ろしていた通りに彼女の姿が現れる。
紅の視線に気付いたのか、部屋を確認しようとしたのか。
見上げる彼女にひらりと手を振った。
小さくなっていくその背中を見送りながら、深い溜め息を吐き出す。

「…限界が近いわね…」

慣れない山道は、たとえ鬼であろうと応えた。
況してや、今の紅は空腹状態にある。
今日明日にでも生気を食わねば、身体を動かすこともままならなくなるだろう。
窓枠に腕を預け、ぼんやりと道行く人を眺めながら、まるで他人事のようにそんなことを考える。
そんな紅の耳に、襖の向こうから声がかかった。

「失礼いたします。お茶菓子をお持ちいたしました」

恐らくは、鈴蘭が女将に言付けていったのだろう。
短い許可を出せば、お盆を携えた女将が人の良い笑顔を浮かべて室内へと入ってきた。

「京は初めてでいらっしゃいますか?」
「ええ。江戸の方にいたものだから」
「それは遠いところから…。何かあれば、いつでもお声掛けくださいませ」

京の町でも有名な和菓子なのだと差し出されたそれを受け取る。
その笑顔よりも、言葉よりも―――飢えた紅の意識は、着物の襟から覗く首元へと向けられていた。
そう近い距離ではないというのに、脈動を感じる。
まだ若い女将の生気は、先日の辻斬りよりも濃厚だろう。
指先から吸い上げた生気が、五臓六腑に沁み渡るのを想像し、ゾクリと背筋が逆立つ。
その感覚に我に返った紅は、まだ少し世間話を繰り返しそうな彼女に対して、小さな笑みと共に退室を促した。
長旅の疲れを窺わせれば、彼女は察したように短い挨拶を残して部屋を後にする。
そして、気配まで感じ取れなくなったところで、ため込んだ息を長々と吐きだした。

「………忌々しい」

鬼の本能に嫌悪感を抱く。
身体から本能を切り離してしまえるのなら、紅は迷いなくそうするだろう。

「…!」

不意に、落としていた視線を上げ、窓の外へと向ける。
道行く人の流れは常に絶えることなく続き、変化している。
その中に、その気配はあった。
去っていく長身の背中は、開く距離に従ってどんどん小さくなる。

「…もしや…あれが白月の…?」

遠のいていく赤い髪を見つめながら呟いた声は、部屋の空気に静かに溶け込んだ。

16.09.24