蒼と白の縁を結ぶ
薄桜鬼 01
夜の江戸―――女性が一人で歩くには危険すぎる場所に、紅はいた。
日中よりは夜の方が、好ましい。
特に、“食事”の時は。
「人を見つけにくいと言う点は不便ね…」
手頃な家で手を打ってしまおうか、複数だとしても、全てを食らってしまえば目撃者は消える。
こうも獲物が見つからないとなると、そんな物騒な事を考えてしまう。
鬼門の一族を守らなければと言う責任感はあれど、人食い鬼としての本能は弱い。
人を食らう事により生き長らえる命、それはまるで―――。
紅が己の限界まで人を食らわない事は、周囲にとっては悩みの種であった。
彼女自身はそれが普通になってしまっているが、鈴蘭を初めとする付き人らに切望され、仕方なく人里に向かう。
飢えに慣れている紅だが、今の自分の状況が芳しくない事くらいは理解している。
今日をやり過ごせば、人里に下りる事もままならなくなり―――近隣の集落から、不明者が出る。
もちろん、それは鈴蘭たちの手によって。
場合によっては、その集落全員が姿を消すことになるだろう。
「この辺りで一人でも食らっておかなければいけな―――」
ふと、紅の感覚が何かを捉えた。
視線ではない、人の気配でもない。
ただ、何かを感じた。
「…?」
そうしてあたりを見回す紅の背中に影が落ちる。
音もなく彼女の背後に降り立った人影は、そのまま長い刀を振り上げた。
無論、それに気付いていない紅ではない。
幾重かに重ねた着物の重さを感じさせる事無く、振り下ろされる刀をふわりと避けた。
「…違う―――ならば、問題はないわね」
そうして、クスリと笑う。
一方の男は、刀を避けられた事に驚きを隠せなかった。
ここ数日、何度かこうして夜の町へと繰り出しては、見つけた人を斬ってきた。
その際、一度として顔を見られた事はない―――最初の一撃で、全てが片付いていたからだ。
気配を殺す事に関しては自信を持っていた。
それなのに、まさかこんな、箸よりも重いものを持てないような女に気取られるとは。
「お、お前…何者だ…」
「さぁ、何者かしら…?」
クスクスと鈴が鳴るような声で笑う。
屈指の花魁や芸子ですら裸足で逃げ出すような、妖艶な笑み。
先ほどの事がなければ、当の昔に魂を抜かれていただろう。
けれど、男にとっては目の前の紅が異質なものに見えた。
異質―――それは、恐怖でしかない。
やがて、その背にぼんやりと蒼い炎が揺らいだ時、男の恐怖は頂点に達した。
「――――っ」
「ねぇ、黙って?」
ひたり、とその指先が、今まさに叫ばんとしている唇に触れた。
もう片方の手がそっと肩に触れ、彼女の纏う香りが鼻孔を掠めた瞬間、全てが消える。
最早、男の表情に恐怖はなく、あるのは恍惚とした表情の抜け殻だけだ。
ガシャン、と刀が落ちる音すら、どこか遠い世界の物だった。
するりと滑らせた両手が首筋を辿る。
肌の一枚下に流れる生命をその指先で感じながら、瞼を伏せてすぅ、と小さく息を吸った。
始めは少しずつ、徐々に勢いを増して指先から流れ込んでくる生気。
やがて、男の身体は骨すら残す事無く、まるで草木が水分を失うように、涸れ果てた。
身に着けていた物だけを残し、ザァ、と崩れ落ちる。
感じていた熱が消えたその指先に、ぺろりと赤い舌を這わせた。
「………薄い」
若くて生きが良いと思ったけれど、体質的に生気の薄い人間だったようだ。
はずれだな、と息を吐いた。
けれど、多少の腹の足しにはなったのだから、今日の所は引き上げよう。
「まったく…忌々しい本能ね」
浮かんでいた鬼火の一つを手の平に呼び、地面に横たわる着物へと放つ。
ボゥ、と蒼い炎に包まれたそれは、瞬く間に消えて行った。
そうして、鬼火が消えるのを横目で見届けた紅は、音もなく闇の中へと消える。
「紅様」
「鈴蘭、結果は?」
「無事に生まれました。しかし―――」
「いつまで生きられるかはわからない…」
鈴蘭からの報告を聞き、紅は浅く息を吐き出す。
今日、一族の者が赤子を出産した。
富士の樹海の奥地にあるこの里は、古から続く鬼の一族である。
かつて人に滅ぼされたと思われていた鬼だが、ほんの一握りが生き延び、細いながらも血を繋ぎ続けた。
この鬼の一族は自らを鬼門の一族と呼ぶ。
鬼門の鬼の生まれは二つ。
鬼門の長である“蒼龍”が人間を鬼に変えることと、鬼の両親から生まれ落ちること。
しかし、生まれた赤子が成長するには鬼の聖地が必要不可欠である。
その聖地を人間に塞がれたことにより、鬼門の滅亡は寸前まで及んだ。
「…あの場所ももう、難しくなってきているのね」
滅亡を逃れた一族の始祖が切り開いた聖地だが、その恩恵はかつてのそれには遠く及ばない。
統計的に考えても、鬼の赤子の生存率は二割に満たないだろう。
「ところで、もう一つの件はどうなっていた?」
「はい。白月の一族は、やはり徐々に減少してきているようです」
「…やはり、女鬼の出生率の低さが原因と考えるべきかしら…」
「家に生まれた女鬼の境遇を見る限りでは、紅様の仰る通りかと」
「鬼門の一族との混血には、女も男もそう変わりはないのだけれど。やはり、この事実を白月の頭領に伝えるべきなのかしら…どう思う?」
「…紅様のお心のままに」
頭を低くそう答えた鈴蘭。
紅は袖で口元を隠し、彼女を見つめた。
鈴蘭は紅が蒼魂によって生み出した初めての鬼だ。
忍であった鈴蘭が紅への忠義の証として強くそれを望み、紅がそれに応えた結果だ。
「…そうね。私たち鬼門も、白月が滅びるとなれば再び人食い鬼として生きるしか術はない」
紅たちが白月と呼ぶ鬼は、人を食らう事無く生きる白髪の鬼たちだ。
自らを鬼門、白髪の鬼を白月と呼び、双方を区別してきた。
人を食らう鬼門が増え栄えると、人は鬼を恐れるようになるだろう。
「そうなれば、また…人と鬼の、争いが起こる」
紅はただ、それだけを危惧していた。
かつて鬼門が滅びたのは、そこに原因があったのだろうと推測している。
人食いの鬼を増やす事無く、けれどその血を残すために―――紅は、考えた。
そうして、彼女は白月の血を迎える事に決めたのだ。
鬼門と白月が交わると、人食いの本能を持たない鬼が生まれる。
人を食らう本能がなければ、人里を脅かす必要もなく―――鬼は、生き繋いでいける。
「白月の鬼を失うわけにはいかないわ」
脇息を離れ、スッと立ち上がった紅が窓辺へと歩く。
障子を開けば、鬼門の里を一望できた。
この里に住まう鬼はおよそ百。
その中で純血を保っているのは、一割ほどだ。
血を交え始めた頃には、もっと多くの純血の鬼がここにいた。
けれど、純血の鬼は人を食らう本能には抗えない。
一人、また一人と里を去っていく彼らを、紅は引き止めなかった。
鈴蘭にその足取りを調べさせたが、その多くは既に死んだ。
残りは鈴蘭にも調べることは出来ず、恐らくは死んだのだろうと考えている。
それだけ、この世は鬼にとっても生きにくい世になってきていた。
どれだけ鬼が強かろうと、数や文明の発達には敵わない。
「―――出るわ」
「はい、ではご用意を」
紅は遥か昔のように鬼門がこの世を支配する必要性を感じていない。
ただ、守るべき一族の者たちが健やかであり、そしてその血を残していくことができれば良かった。
16.09.24