親愛なる君に捧ぐ
  Beast Master And Prince  12

遅れて地下通路のゲルダの研究室にやってきたコウは、すぐにマティアスの傷の具合を確かめた。

「やっぱり、ベルントを疑いきれなかったのね」
「………愚かだと思うか?」
「いいえ、とても人間らしいと思うわ。一度信じた人を、そう簡単に疑うべきではないもの」

彼が傷つくことのない未来でもいいと思った。
けれど、それはマティアスがベルントを敵として認識してしまった未来でもある。
信じていたからこそ、コウの先見が間違っていることを願う。
人間らしくていいじゃないか―――コウは、心からそう思った。

「正直、あの角度で斬られて、こんなにも傷が浅いとは思わなかった」

現場に居合わせたアルフレートは、マティアスの様子を見ながらそう言った。
もしかして、ベルントにも迷いがあったのだろうか。
そんなアルフレートの考えを否定したのは、マティアス本人だった。

「傷自体は深かった。だが、倒れてから傷口が熱くなって…急激に、治り始めている」

自らの身体の事だ。
他でもない彼自身が、その変化を正しく読み取っている。
マティアスはコウを見た。

「どうやら、借りが出来たらしいな」
「あなたにはまだまだ動いてもらわなければいけないから、その先行投資よ」

マティアスにそう返しつつ、彼女はゲルダの作業を覗き込む。
そこは違うわ、と指示を出して傷薬を仕上げ、てきぱきと手当を進めた。

「傷は治り始めているけれど、無理は―――」

言葉半ばで腰を折ったコウは、胸元を握りしめてぐっと奥歯を噛み締めた。
部屋の片隅にいた不死鳥の姿が陽炎のように揺らぎ、そして消える。
マティアスが傾ぐ彼女の身体を受け止め、その名を呼ぶ。

「…竜が、騒ぐの。私の力が…引きずられる」

あの時、魔女は必死に竜の暴走を食い止めようと押さえていた。
今回は違う。
宿主は竜が暴れることを望み、竜もまた、それを望んでいる。
20年前とは比べ物にならない、強すぎる力が、コウに影響を及ぼしていた。
白くなるほど手を握りしめてそれに耐えた彼女は、肩で息をしながら姿勢を戻す。

「猶予はないわ。竜はティアナがとめる。あなたたちは、弟を止めて」
「あぁ、わかった」
「シルビオ。ティアナと一緒に行ってあげて」

振り向いてシルビオを見つめてそう言うと彼は、なっ、と言葉を詰まらせた。
彼女と共に行くことに抵抗があるのではない。
コウと離れることを拒んでいるのだ。
しかし、コウは彼が何かを言う前に言葉を重ねた。

「薬を作ってから後を追うから。すぐに行くわ」
「でも…!」
「ティアナとゲルダに行かせるわけにはいかないでしょう?お願い」

コウの強い頼みを聞かないわけにはいかない。
悩みに悩んだ末、シルビオは苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。




彼らを送り出した後、研究室にはコウとゲルダの二人だけが残った。
何の薬を作るのかを聞いていないゲルダは、彼女の指示を待つように視線を彷徨わせる。

「ゲルダ」
「どうしたの、コウ?」
「あなたに、お願いがあるの」















城までの道を走る彼らの耳に、大きな咆哮が聞こえた。
どんな猛獣とも異なる、聞いた者を恐怖に貶めるような声。

「あれが、竜…」

ローゼレット城が見え、その上に巨大な影を見た。
誰ともなく速度を落とす。

「不安か?」
「…ええ」

ティアナは胸元の笛をギュッと握り、頷く。
母の言いつけどおり、身体の大きな猛獣を操れるよう訓練を重ねてきた。
けれど、この力は本当に、あの大きな竜に通用するのだろうか。

「怖いけど…守らなくちゃ」

ティアナは、20年前の出来事を知らない。
人の口から、漸く立ち直ったのだと聞かされても、何の事なのかよくわかっていなかった。
平和に生まれた彼女にとっては、目の前に起きている現実すらまるで夢のような非現実に思えてくる。
知らないけれど、だからこそ―――二度と、町を火の海にしてはいけないと思った。

「まさか…ティアナか…?」

そんな声が聞こえ、ティアナが声の方を向く。
そこにいたのはクラウスだ。
いつものきっちりとした服装がやや乱れていることが、今の状況をより深く理解させる。

「何故ここにいる?街の住人はザルディーネに避難するよう言われていたはずだろう」
「聞いて、クラウス!」

危ないことはするなと常日頃から口を酸っぱくしている彼の事だ。
反対されるとわかっているティアナは、即座に声を上げた。
いつになく必死な様子の彼女に、クラウスが軽く目を見開く。

「私、行かなくちゃ。私なら出来るって、コウさんが…!」
「“コウ”?」
「あ、えっと、彼女は―――」
「一時期ザルディーネで教鞭を執っていた。覚えていないか?」

ティアナの説明を遮るようにしてマティアスがクラウスに問いかける。
クラウスは少し悩み、記憶の中の“コウ”を思い出したようだ。

「代理で来ていた彼女のことか。しかし、何故彼女が関係するんだ?」
「彼女は先見の魔女だ。未来を視ている」

俄かには信じがたい内容だろう。
信じるか、否か。
考えるクラウスだが、新たなる咆哮により中断を余儀なくされた。

「…あの怪我でお前が動けているのも、彼女のおかげか?」
「あぁ、そうだ」
「………なら、悩む時間は無駄か…。ディルク殿下は闘技場だ。城内の兵には逃げるよう伝えてある」

お前たちを止めるものは何もないだろう。
クラウスの言葉に、ティアナが笑顔を見せた。

「ありがとう!」
「だが―――怪我はするなよ」
「うん!」

頷く彼女の表情からは、先ほどの恐怖が消えていた。
背中を押してくれる人がいる。
その存在が、彼女に勇気を与えたのだろう。
再び走り出した彼らの背を追いながら、シルビオは一度だけ振り向いた。

まだ、コウたちの姿はない。

10.09.21