親愛なる君に捧ぐ
Beast Master And Prince 06
日暮れ頃に帰ると言ったシルビオは、夜になっても帰ってこなかった。
何となく、わかっていたのかもしれない。
今日が“あの日”なのだと。
シルビオがマティアスとアルフレートに出会い、彼らが生きていることを知る日。
そして、二人が地下通路へと身を隠す日。
「助けを求めてって…そう言ったのに」
待つことしかできない自分は、なんて無力なんだろう。
「シルビオ、ゲルダ…」
一人で過ごすには、この家は広すぎる。
コーヒーでも入れようか、と腰を上げたところで、キッチンの方からカタンと言う小さな音が聞こえた。
彼らが帰ってきたのかもしれない。
その時のコウは、自分でも迂闊だとは思うけれど…向かう先にいるのが彼らであると、疑っていなかった。
カーニバルが始まり、街中はいつも以上の賑わいを見せている。
コウの家の前の通りは、いつもはさほど人通りのない道だ。
しかし、今日に限っては近道として使う人がいるらしく、時折玄関の擦りガラス越しに人の影が横切った。
人影が写る度に、もしかして、と僅かに腰を浮かせ、通り過ぎては落胆する。
帰ってこない、来るはずがない。
二人は、おそらく自分を巻き込むまいと考えただろうから。
ゲルダはコウのことを知っているから、もしかしたら頼るべきと思ったかもしれない。
しかし、間違いなくシルビオが止める。
助けを求めてほしいと言ったけれど、彼がそれを実行に移せないことも理解していたのだ。
彼は、優しい子だから。
帰ってくるかもしれないと、一縷の望みをかけて作った料理は無駄になるだろう。
腐ってしまう前にと処分して、そっと溜め息。
「…これから…どうすればいいのかしら」
誰かが答えをくれるはずもない。
自分で考えなければいけないのだ。
これは、他でもないコウ自身の物語でもあるのだから。
「本当は関わらない間に終わってくれるのが一番なんだけど…と言うより、誰ルートなの、これ?」
踏み込んだ呟きだと言う事なかれ。
コウとしてはとても重要なところなのだ。
彼女が心を惹かれる相手によっては、物語は大きく変化する。
コウと言う異分子を得て尚、同じ展開になるかは誰にもわからないが。
「あの子は…今日と言う日を、いったい誰と楽しんでいるのかしらね…」
窓の外、穏やかな日差しが降り注ぐ街を見つめ、コウはそう呟いた。
この先のことを思えば、今日くらいは楽しんでほしいと思う。
ティアナはエリクとルシアと共に、カーニバルに出かける。
そして、用があると言ったマティアスとアルフレートは、共に地下通路へとやってきていた。
「この道は、つい最近使われだしたらしいな。足跡が新しい」
アルフレートが右に伸びた通路を見て、そう呟いた。
「奴らが逃げた通路だと思うか?」
「どうだろうな。とにかく、油断せずに進んでみよう」
明かりを手に通路を右へと折れる。
どのくらい進んだのだろうか。
やがて、二人の前に階段が姿を見せた。
使われた痕跡のある道、上へと通じる階段。
アルフレートが先に立ち、軽く階段の先にある扉を押す。
鍵はかかっていないようだ。
二人は顔を見合わせ、そして頷いた。
カタン、と音がした。
本を読んでいた手がぴたりと止まる。
音は、玄関からではなく、キッチンから聞こえた。
記憶が正しければシルビオたちは地下通路へと逃れる。
そして、キッチンには地下通路と繋がる扉がある。
もしかして―――そんな思いがコウを動かした。
この時のコウは、彼らを案じるあまりに警戒することを忘れていた。
本を置き、急ぎ足でキッチンへと向かう。
ガタン、と再び音が聞こえ、自然と心が逸る。
「シル―――」
駆け込んだキッチンには二つの人影。
しかし、それはコウが望むものではない。
互いが互いに驚き、一瞬その場の空気が時間を止めた。
そんな中、真っ先に動いたのは、この中で最も実践経験の豊富なアルフレートだ。
彼は階段の時点で持っていた短剣を手に彼女に近付き、その腕を掴んだ。
そして、その白い首筋にぴたりと刃を当てる。
「アルフレート」
マティアスがやや咎めるように名を呼んだ。
もちろん、彼女が四人の会話の中で上がっていた人物であり、この一件に関わっているかもしれない。
それはわかっているが、女性に剣を向けることは彼としてはよほどの理由がない限りは許しがたい行為。
「彼女は市場で薬屋の男と一緒だった。家族だと…そう言ったな?」
「…何?」
マティアスの目が変わる。
コウはやんわりと、けれど確実に自分を拘束するアルフレートにも、一切動じたりはしなかった。
疑われる可能性を考えなかったわけではない。
姿を見せることの危険性や時期を理解した上で、自分の存在を彼らの中に残したのだから。
必要か、不必要かはわからなかった。
けれど、コウ自身がそうすべきだと思ったから…そうしたいと思ったから、しただけのこと。
「…乱暴なことはしない。知っていることを話してほしい」
「………突然、人の家に押しかけてきて…剣を突き付け、乱暴はしない…と?
流石に信用するのは難しいですわ、マティアス殿下」
一般人と言うわけでもないのだから、名を知られていることに驚きはしない。
けれど、この状況で冷静すぎる彼女を見れば、自然と警戒心が高まってくる。
「…アルフレート」
名前ひとつで、彼は求められていることを理解する。
少しだけ迷い、彼女の首に突き付けた剣を下した。
「…お久しぶりですね。覚えていらっしゃるかはわかりませんが」
「覚えている。私に忠告してくれたその内容まで、一字一句間違えずに」
「そう、ですか…船が転覆したと聞き、先見が当たってしまったことを悔やんでおりましたが…。
ご無事で何よりです、両殿下」
自由を許された彼女は、そう言って自然な仕草で彼らへの敬意を示した。
心の奥まで読み取ろうとする、真剣な眼差し。
コウは逃げることなくマティアスの視線を正面から受け止めた。
「…シルビオと言う男を知っているな?」
「ええ。アルフレート殿下が仰るように、彼は私の家族です。
…殿下がどこでそれをお知りになったのかは存じ上げませんが」
そこで、アルフレートは自分がそれを聞いたのはオオカミの時だったと思い出す。
「ティアナと言う猛獣使いの娘を知っているだろう。我々は今、彼女の家で世話になっている」
「なるほど…彼女から、聞いたのですね。…シルビオはここ二日ほど家に帰っていません」
「行方を知らないのか?」
家族なのに、と言う声が聞こえた気がした。
コウは彼の言葉に苦笑を浮かべる。
「何故、あなた方がシルビオを探しているのかはわかりません。彼が何故、帰ってこないのかも」
知っている。
けれど、知らないことにしなければならないのだ。
シルビオ自身が巻き込まないと決めたのなら、彼の意思を尊重する。
そんな彼女を見て、マティアスがふぅ、と困ったように溜め息をついた。
「ティアナが彼の薬を求めている。どうしても必要なものだ」
「え?」
その時、初めてコウの表情が動いた。
そんなはずはない、金の粉は、ちゃんと彼らの手に渡ったはず。
金の粉の力で人の姿に戻り、薬屋に姿を見せたからこそ、シルビオたちは地下通路へと逃げたのだ。
まさか―――未来が変わった?
「でも、金の粉を買ったからあなた方は―――」
そこまで言って、気付く。
今更口を噤んでも無意味だった。
あぁ、なんて馬鹿だったんだろう―――未来は、変わっていなかったのだ。
「やはり、我々の事情を知っているようだな」
直接的な証拠は何一つなかった。
けれど、可能性を確信に変えるだけの要素には十分だったのだ。
彼は薬を金の粉だとは言っていないし、それは彼らが使うものだとも言っていない。
「我々と共に来てもらおう」
最早、抵抗は悪足掻きでしかなかった。
10.08.20