親愛なる君に捧ぐ
  Beast Master And Prince  03

店のドアにCloseの看板を引っ掛け、中へと戻る。
相変わらずこの薬屋は繁盛しているのか微妙なところだ。
材料費は殆どかからないから赤字ではないが、それでも潤っているわけでもない。
需要の低さが原因だろうと予想しながら、片付けを始めた。
今日は地下通路の研究室ではなく、コウの家に帰ろう。
何となくそう決めて、薬屋を出て鍵を閉める。

「シルビオ?」

振り向いたところで、こちらを見ている少女に気付いた。
彼女もまた自分に気付き、笑顔で近付いてくる。
彼女の足元には、まるで彼女を守るようにオオカミが睨みを利かせていた。
眼帯と、首元のバンダナ。
何となく普通のオオカミらしくないけれど、彼女の飼いオオカミなのだとすれば当然なのかもしれないと思う。

「お店、もう終わりにしたの?」
「そ。今日はもう閉店。何か用事だった?」

ううん、と首を振る彼女。

「じゃあ、これから俺とデートしない?今からフリーだからさ」
「で、デート!?」

頬を赤くして慌てる彼女は、一般的に言えば可愛いのかもしれない。
けれど、俺にとってはどこか他人事の光景にしか見えなかった。
心中は酷く冷めていて、彼女が頷いたところで、とてもではないが楽しい時間が過ごせるとは思えない。

「ご、ごめんなさい。私、これから夕食の買い物に行くの」
「そっか。残念」

まるで別の事を考えながら、残念そうな表情を作る。
彼女が頷かないと知っているからこそ、シルビオという人間を作るために彼女を誘う。
早くあの家に帰りたいと思った。

「もうすぐ暗くなるから、気をつけなよ」
「うん。ありがとう」

笑顔を浮かべる彼女とすれ違う。
ふわりと、彼女の香りが鼻に届いた。

「な、何!?」

驚いた表情の彼女と、彼女の腕を掴む自分。
自分の行動に驚いたのは、他でもない俺自身だった。

「シルビオ…?」
「…ごめん。何でも…ないんだ」

戸惑ったらしい彼女は、腕を放すと少しだけ悩む素振りを見せた。
やがて、オオカミに促されて市場への道を歩き出す。
彼女から、コウの匂いがした。
気のせいなのかもしれない。
あの一瞬、そう感じただけの微かなものだったから。
けれど…自分の身体は、本能的に彼女を引き止めた。
もしかすると、彼女がコウを知っているんじゃないかと、そう思ったのかもしれない。

「何やってんだか」

俺を睨んでいったあのオオカミも、俺と同じなのだろうか。
足を速め、家路を進んだ。














何も変わらない室内が、何か違う気がした。
何が違うのかはわからないけれど、何かが違う。

「そう、か…」

匂い、だ。
日に日に感じられなくなっていたコウの匂いが、今日に限って強く感じ取れる。
これはもう、気のせいなんかじゃない。
匂いが向かう先はキッチン、寄り道一つせず、真っ直ぐにそこに向かう。
ばたばたと猫にあるまじき足音をさせて辿り着いたそこには、誰の姿もなかった。
頼りない足取りで一歩踏み出すと、カツン、と何かが足先に当たる。

「…釘…?」

二日前には覚えのなかったもの。
取り留めて注目すべき点のない、ごく普通の釘。
使った覚えのないそれを拾い上げようとして、足元の違和感に気付く。
釘を打ってあるはずのカーペットが、何かに挟まっていた。

「まさか…!」

気付きもしなかった。
けれど、可能性はあったのだ。
切り裂く勢いでカーペットを捲り上げれば、人が通るに十分な入り口が姿を見せる。
地下通路へ続く階段は暗いけれど、黴臭さの中に確かに存在する彼女の残り香。
迷いはなかった。
















やっとの事で辿り着いたゲルダの研究室に彼女の姿はなかった。
その事に安堵しつつ、机の上や本棚の文献に目を通す。

「…やっぱり…」

複数の記述により、導き出される答え。
二人は、ファザーンの王子4人を殺そうとした―――その事実に、愕然とした。
起こるべくして起こった事であり、変わる事のない運命だったのかもしれない。
けれど、心のどこかで、二人はそんな事をしないと…知っているからこそ、そう信じていた。

「―――…もう、行かないと」

震える声を叱咤し、自分にそう言い聞かせる。
ここで彼らと出会ってしまったら、全てが水の泡だ。
優しい場所を捨て、世界を旅した意味がなくなってしまう。
資料を机に戻し、唯一の扉を振り向く。
その瞬間、ドアノブがかちゃりと動くのを見た。
咄嗟に身を翻すも、隠れる場所などどこにもない。
一瞬の間に伸びた手に腕を拘束され、そのまま閉じた扉へと縫い付けられる。
ピクリとも動かない腕が、相手との力の差を物語っていた。
その拍子に、肩から羽織っていたマントがばさりと床に落ちる。
フードをかぶっていなかったのが仇になったらしい。

「やっぱり…コウだ」

それはこちらのセリフだと思った。
ドアノブが揺れるまで気付かなかった事から、足音や気配を消せる人物である事は間違いない。
そんな事が普通に出来るのは、元が猫の彼くらいだと思ったから。
「今更何をしにきたの?」そう問われることを覚悟して、落としていた視線を上げる。
視界に映るのは、初めて見る…けれども、覚えのある姿。
一瞬だけその金の目と視線が絡んだかと思えば、次の瞬間にはその腕の中に閉じ込められていた。

「!?ちょ…シルビオ!?」
「そうだよ、俺はシルビオだ。…忘れられてなかったんだ…」

心底安堵したような声に、身体の力が抜けた。
シルビオ、と小さくその名を紡げば、腕の力が強くなる。

「責めないの…?私は、何も言わずにあなたを置いていったのに…」
「そりゃ、何も思わなかったって言えば嘘になる。でも、あんた、言ってただろ?
信じてくれるなら、絶対に裏切らないからって。俺は…信じてたよ。帰ってくるって」

甘えるように擦り寄る仕草は、猫の時と何も変わらない。
目の前の彼がシルビオなのだと納得し、そっとその背中に腕を回した。

「勝手にいなくなってごめんね。それから…信じてくれて、ありがとう」

かつて、猫だった彼を撫でた時と同じように、ふわりとした柔らかい髪を手の平で撫でる。
背中に回された腕が少し苦しかったけれど、彼の気持ちの表れなのだと思えば嫌ではなかった。








「ねぇ、シルビオ。顔を見せて?」

どのくらいそうしていたのか。
一向に解放されない状況に困ったコウが、そっと声をかけた。
腕の力が緩み、それに応じて二人の間に空間が生まれる。
離れていく体温が少しだけ寂しかった。

「…猫の時も綺麗な顔立ちだと思っていたけれど…うん、男前ね」

コウの身長はそう高い方じゃないから、目線の高さはほぼ同じ。
猫の時、首輪代わりにと巻いてあげた緑のスカーフが良く似合っていた。

「………」
「シルビオ?」

じっと自分を見たまま黙り込んでいる彼に、コウはもしかして、と思う。

「やっぱり、猫の目で見るのとは感じが違う?がっかりさせたかな」
「違うって!そうじゃなくて…!いや、確かに猫の時とは印象が違うけど…」

慌ててそう反論した彼が、今更ながらに恐る恐るコウの手に触れる。

「こんなに柔だったっけ…?強く握ったら折れそう」
「…思い切り抱き締めておきながら何を今更」

思わずそう笑えば、彼は拗ねたような表情を浮かべた。
けれど、握った手は離さない。

「お帰り」
「…ただいま」

日常が帰ってきたのだと実感して、不覚にも涙が零れそうになった。

10.08.17