Destiny  - 60 -

頬を濡らした赤を拭い、コウは息を吐き出す。
その動作は酷く緩慢で、今のその素早い動きが嘘のようだった。
そして、彼女は動く事のできないラビと神田を振り向く。

「お怪我はありませんか?」

そう問いかけた彼女に、二人は同時に眉を寄せた。
その光景は何とも不思議なもので、理由の分からない彼女は首を傾げる。

「どこかお怪我を?」
「いや…」
「こんな時に寝ぼけてんのかよ」

呆れた風な神田の口調に、彼女は更に訳がわからないといった表情を見せる。

「生憎、寝ぼけていません。それにしても…私の癖を、ご存知なんですね。どこかでお会いしましたか?」
「「…は?」」

二人が同時に間の抜けた声を発する。
漸く再会できた仲間に、言うに事欠いて「どこかでお会いしましたか」だ。
あまり声を荒らげる事のないラビは兎も角として…気の短い神田が黙っていられる筈がない。
フルフルと肩を震わせたかと思えば、彼は深く息を吸い込んだ。

「ふざけてんのか、テメェは!!!」

怒号が彼女の耳だけでなくラビのそれをも貫き、その広い空間に響き渡る。
耳を押さえたままコウとラビがその場に蹲った。
何と言うか―――反響が凄い。
その声の主である神田自身さえも、思わぬ大きさに眉を顰めたほどだ。
「こ、んな地下で大声を出すなんて…馬鹿ですか、あなたは…」

「な…っ!」
「はいはい、ちょっと黙っててよ、ユウ」

ラビは更に声を荒らげようとした神田の口を後ろから塞ぐ。
また怒鳴られてはこっちも迷惑だし、何より話が進まない。

「いいから、ここは俺に任せてくれない?」
「…ちっ」

こっそりとそう告げれば、神田はラビを一睨みした後、舌を打って彼の手を逃れる。
その後は傍観すると言う姿勢を露に二人を見た。

「…ちょっと聞きたいんだけど…ここがどこか分かる?」
「…恐らく、セントラルの地下を走る水路の一つでしょう。この先が調整室になっているんだと思います」
「そっか。地下水路ね。で、もう一つ質問。何で俺らと同じコートを着てるんだと思う?」

ピッと彼女の服装を指差し、ラビはそう尋ねた。
彼女は自分自身を見下ろした後、さぁ、と答える。
その答えを聞き、ラビはにっこりと笑って「そっか」と答えて神田の首をがしっと抱え込む。

「放せ!」
「…何か、俺たちの事を知らないって感じさ。あれ、コウに間違いないよな?」
「あんな馬鹿が二人も三人も居て堪るかっ」
「だよな。俺も、コウに間違いないと思う。で、結論としては―――俺達の記憶がない」

ラビが一際声を潜めたその言葉に、神田は軽く目を見開いた。
記憶がない、つまりは、記憶喪失だと言いたいのか。
そんな視線がラビへと向けられる。

「で、多分ここはコウが元居た世界。俺達の世界にあんなのは居なかったし…間違いねぇさ」

あんなの、と言う部分で、すでに物言わぬ骸となっているそれに目を向ける。
それにつられるように神田もそれを一瞥し、そしてラビへと戻した。

「何にせよ、俺達は何にもわからない世界に放り出されたって訳だ」
「…あいつに付いていくつもりか?」
「ご名答!じゃねぇと、またあんなのが出てきても困るだろ?それに…コウを置いてく事だって出来ないんだしさ」

横目でコウをチラリと見てから、ラビはそう言った。
何も答えずに沈黙する神田の心は、彼と同じなのだろう。
反対意見はなさそうだ、と判断すると、彼は神田の首を解放した。

「なぁ、俺ら、なんか迷ったみたいでさ…わかる所まで連れて行って欲しいんだけど」
「…なら、地上まで案内します。ここは軍専用の地下水路のようですから」

彼女が見ていた方向にある一本の太い水道管のようなものに、軍のシンボルマークが刻まれていた。
彼女にとっては見慣れた、ラビや神田にとっては彼女の銀時計を通して見覚えのあるそれ。

「軍用の地下水路には、迷った時の為に道標があるんです」

コウはそう言うと、その紋章の隣をギュッと擦る。
そうすれば、汚れで見えなくなっていたらしい番号と左右に伸びた矢印があった。
その両端にはアルファベットで説明も付けられている。
彼女はその目でそれを読み取ると、クルリと彼らが来た方の通路を見た。
先ほどは塞がっていると思っていたのだが…どうやら、水路が作られた後に封鎖されたらしい。

「出口はこっちです」

そう言って、コウが歩き出す。
ブーツが下に溜まっていた水を踏み、パシャンとその音を弾かせた。
踵を返すその姿も、自身有り気に歩き出すその背中も、何も変わらない。
自分達が一年間見てきた彼女以外にはありえないそれに、彼らは沈黙した。
その背中が、酷く遠い。
















ギィィとその悲鳴を聞きながら、重く古ぼけた扉を押し開ける。
隙間から差し込んできた日差しが目を焼き、コウは思わず顔を背けた。
夕暮れと言うにはまだまだ日も高く、遠くで町のざわめきが聞こえる。
ふわりと鼻孔を擽ったそれが、何故か懐かしかった。

「セントラル…」

地名の書かれたそれを見上げ、彼女は小さく呟いた。
それから通路を譲るようにと身体を退かせれば、後に続いていたラビと神田がその日差しを浴びる。

「無事に地上に出られたようですね。どうやら、使われていない水路のようです」

コウは自身の足元に落ちていた錆びた鎖の破片を指先で拾い上げつつ、そう言った。
先ほど扉を押し開ける前に感じた抵抗は、これの所為だったらしい。

「私はこのまま軍に戻りますけれど…あなた方はどうするんですか?」
「軍に“戻る”?」
「ええ。………准将がお亡くなりになってから、仕事は溢れていますから」

その言葉に、二人は彼女の顔を翳らせていたものの正体を悟る。
そして、同時に彼女の言葉により、彼女の記憶が一年前のそれに戻ってしまっている事と気付いた。
彼女の中では、養父の死はまだ過去の出来事ではない。

「なぁ、俺達―――」
「そこで何をしている!?」

ラビの言葉を遮ったのは、厳つい顔の憲兵だ。
ズカズカと進んでくる彼に、三人はそちらへと視線を向けざるを得なかった。

「すでに廃止された水路に何の用だ」
「…失礼しました。この方達が現在使用中の水路から、使われていないそこに迷い込んでしまったようです」
「…何者だ、貴様は」

怪しい奴、と言う気持ちが顔に表れている。
コウはそのことに気付くと苦笑を浮かべながらコートのポケットを探った。
そして、冷たいそれを引っ張り出して彼の前にぶら下げる。

「癒生(ゆじょう)の錬金術師、コウ・スフィリア少佐です」

軍内に所属する者で、銀色に光りどこか威厳すらをも感じさせるその存在を知らない者はない。
怪しんでいた憲兵はその表情を青く一転させ、ビシィッと敬礼する。

「これは失礼いたしました!国家錬金術師殿とは露知らずご無礼を!!」
「構いません。それよりも、彼らを焔の錬金術師に引き合わせたいのですが…彼は東方司令部に?」
「いえ、マスタング大佐でしたら、一年近く前にセントラルの勤務に就いておられます」
「セントラルに…?」

自分の知らないことだ。
コウは告げられたそれに眉を寄せる。
暫し考えるように顎へと手をやって、それから憲兵の彼を見た。

「分かりました。引き続き、見回りを宜しくお願いします。―――行きましょう」

そう言ってラビと神田の腕を取り、口を開く前に歩き出してしまう。
憲兵の敬礼に見送られながら、三人はその場を後にした。








コウたちを呼び止めた例の憲兵は、休憩所にて見回りの疲れを癒していた。
そんな彼の元に同僚が姿を見せる。

「おい、廃止された水路の入り口の封鎖が解かれてたんだが…お前の見回りの時には異常はなかったか?」
「いや、それが…癒生の錬金術師が迷ったらしい男を連れて出てきたんだ」
「癒生の…?それって、コウ・スフィリア少佐の事か?」
「あぁ、そうだ」
「………おい、本当かよ、それ…。スフィリア少佐は、マース・ヒューズ准将の殉死一ヶ月後に行方不明のはずだろ?」

同僚の言葉に、彼は「…え?」と戸惑いの声を上げた。
それが事実ならば、自分が話した彼女は…。

「しかも、もう一年も前の事だ。本当なら…今すぐマスタング大佐に報告した方がいいぞ」
「あ、あぁ…。でも、スフィリア少佐は大佐の元に行くって…」
「それが本当かどうかは分からないだろ。一応、報告しとけよ」
「そ、そうだな。そうするよ」

状況把握が思うように進まず、彼は戸惑いを落ち着かせないままに腰を上げる。
そして、その勢いのまま中央司令部へと走っていった。

07.02.13