Destiny - 56 -
「ラビ遅いねー」
『ねー?』
まるで、言葉を覚えたばかりの子供のようだと思った。
自分の言葉を繰り返し、それでも考えた上での返事を要求された時には単語を繋げて発する。
それでも、そうして返事が返って来るのはやはり新鮮で、自然と口元が緩む。
その感情を表すように、コウはアズの頭を撫でた。
ふわりとしていて、それで居てさらりとした質感の毛並みが指の間を通っていく。
ふと、飽く事無く梳いては絡ませ、梳いては絡ませとその毛並みを楽しんでた彼女の指が止まる。
それを不思議に思ったらしいアズの視線を受けつつ、彼女はコートの中に手を伸ばした。
引き出してきたそれに持たれていたのは分厚すぎず薄すぎず…そんな厚みの本だ。
尤も、その厚みは彼女にとっての事なので、一般的に言えば百科事典の半分ほど、と思ってもらえばいい。
それを膝の上に乗せ、硬い表紙を捲ると、視界に飛び込んでくるのは見慣れた…けれども遠い、紋章。
「汝の世界の媒介を以って自身の知を示せ…か」
中ほどのページに挟み込んでいた紙切れの上に並べられた単語は、そんな意味の文章を綴っている。
これが何を示すのか…まだ実践はしていないが、おぼろげに理解していた。
「アズは…世界を渡ることが出来るの?」
『世界?』
「…ごめんね、言っても…分からないか」
そう言って苦笑を浮かべ、コウは彼の頭を撫でた。
そして、ふと思う。
もし、アズが世界を渡ることができるならば―――自分は、どうするのだろうか。
一年と言う短く…けれども長い時間を捨て、自身の過去の記憶に縋るのか。
それとも、過去に背を向けてこの世界に在り続けるのか。
「戻る…?あの世界に…?」
そう呟き、コウは自嘲の笑みを零した。
いつの間にか手には銀時計が握られ、その冷たい金属感が掌を伝ってコウを内側から冷ましていく。
「ヒューズさん…」
その名を口に出して、コウの内部はより一層凍てついていく。
もしかすると、自分はまだ一歩も踏み出せては居ないのだろうか。
この名前は、今確かに自身の心を揺さぶった。
彼が居ないと理解しながらも、彼の名残のある世界が恋しい。
けれど、そう思う半面で、彼が居ない世界に戻る事が恐ろしい。
また、彼が居ないのだと、否応なしに理解させられる事を想像すると、背筋が冷たくなった。
「嫌だ…。また、あなたが居ないのだと理解するのは…嫌…」
石畳の階段に腰を下ろしながら、コウはぎゅっと自身の肩を抱いた。
自身を案じるようにアズが見上げてくるその視線を感じながらも、それに答える余裕が無い。
世界に、闇が迫っていた。
「…おい!そんなところで寝るなよ!」
「!」
目を閉ざし、全てを遮断しようとした、まさにその時だ。
機を窺っていたかのようなタイミングで、そう声を掛けられてコウは肩を震わせる。
同時に、かかっていた闇が薄れ、瞬く間に消え去るのを感じた。
まるで、悪い夢でも見ていたかのような…そんな感覚。
「ユ…ウ…?」
「何だよ。休んでるだけかと思ったら、本当に寝てたのか?」
幽霊でも見たかのような目で見上げてくる彼女に、神田は軽く眉を寄せてそう言った。
こっちは本部の連中への説明に追われてたってのに…と言いながら、少しだけ距離を開けて彼女の隣に座る。
「…どうした?」
自分の名前を不安げに呼んだ後、何も言わない彼女。
流石に彼も様子がおかしいと気づいたのか、そう尋ねてきた。
こう言うのはアイツの仕事だ、と心中で吐き捨てつつも、彼女の答えを待つ。
「…何でも…。何でもない」
「…何でもない奴が、そんな真っ青な顔してるわけねぇだろうが」
ガシッと頭をつかまれたかと思えば、俯こうとした顔を無理やりに彼の方へと向けられる。
首筋から変な音がしたような気がしたが、気のせいだと思いたい。
「何があ―――」
問いかけようとした彼の言葉は、不自然に途切れた。
彼の視線の先を辿り、コウは納得する。
彼女の手元にある本が、彼の視線の先にあった。
「…懐中時計と同じ紋章だな」
「うん。何か…向こうの本みたい」
奥まで突き詰めて読んだわけではないが、少なくともこの世界とは違う錬金術の話が書かれていた。
それは、この本がこちらではなく向こうの世界のものである事を示している。
普通ならば異世界の本などありえない話だが…現に、目の前に存在する彼女を見れば、それも頷かざるを得ない。
「何か進展したのか?」
「一応、ね。試したわけじゃないから、何が起こるかはわからない」
そう答えると、コウは彼に本を差し出す。
いつものようなはっきりとした動きではなく、ゆっくりとそれを受け取ると、神田は文章に目を落とす。
コウは彼の様子を横目に見つつ、アズを膝の上に抱き上げた。
大きくなった彼は、膝の上に乗せるには少々大きすぎる。
上半身を乗せるしか出来なかったが、それでもアズには満足だったらしい。
白い毛に覆われた尾が嬉しそうに揺れた。
「…返す」
「早いね。もういいの?」
「…誰がこんな難解なものを読めるんだ」
彼にしては珍しく、どこか疲れたような声でそう言いつつ本を差し出す。
それを受け取りながら、コウは苦笑した。
自分には馴染みのある内容でも、一般的に見れば難解な文字の羅列。
もしかすると、意味すら分からない単語もあったかもしれないな。
そんな事を思うと、何だか笑いが込み上げてきた。
『コウ。ラビ、来た』
アズの声に反応したのはコウだけではなく、神田もだ。
二人して振り向いた所で、すでに走り寄ってきていたらしいラビの姿が映る。
と次の瞬間には、コウの視界は黒で埋め尽くされた。
「コウ!!無事だな!?」
半ば体当たりされるようにして力強く抱きしめられたコウは、苦しげに彼の背中を叩く。
だが、そんな事など気にも留めない様子のラビは、よかった、よかったと安堵の言葉を重ねる。
「…おい」
「ん?あぁ、ユウじゃん。久しぶり」
「あぁ。それより…コウを放せ。窒息させる気か」
あっけらかんと返してくるラビに、見かねた神田は軽い頭痛を覚えつつ彼からコウを引き剥がす。
漸く新鮮な空気との再会を果たしたコウは、コートをぶつけられた鼻を手で撫でた。
「ラビ…手加減はしてほしいよ、流石に」
「あー…悪かったさ。つい」
つい、で済ませるな、と言いたい所だが、しゅんと肩を落としつつ苦笑を浮かべた彼にその言葉を飲み込んでしまう。
心配してくれていたのだと言う事は、素直に嬉しかったのだから。
「…ありがとう。それと、ごめん」
「いいって。無事ならそれで。それに…」
そこまで言って、彼はアズを見た。
にっこりと笑って彼の頭を撫でながら、ラビは続ける。
「アズが戻ってよかったな」
『ラビ、ラビ』
「お。何だ?話せんのか?」
成長したなぁ、と笑う彼に、アズは嬉しそうに擦り寄っていた。
ドラゴンが人語を話すのか、何故こんなにも大きくなっているのか。
疑問を抱きだせばキリがないと思うのだが、彼はすんなりと現実を受け入れている。
「…トランキライザー…か」
心の葛藤に押しつぶされそうだった気持ちが、彼との…いや、彼らとの会話で安定を取り戻してきている。
思わず呟いた言葉はアズ以外には届かなかったが、代わりに彼女の表情は彼らにも見えた。
穏やかに微笑む彼女に、ラビと神田は視線を合わせる。
神田はふんと鼻を鳴らして顔を背け、ラビは口元を持ち上げて肩を竦めた。
07.01.09