廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 番外編:松永久秀07 --

崖の下からいくらか離れたところで、氷景は木に背中をもたれさせて息の塊を吐き出した。
ズキズキと痛む身体の各部に気付かない振りをして、腕に抱いた紅を見下ろす。
例の忍との一戦は、決して楽なものではなかった。
だが、足止めを目的としていた彼…風魔と、殺してでも進むつもりの氷景とでは心構えが変わってくる。
それは、時として戦闘にて大きな役割を果たすものだ。
氷景が押し始めたところで、風魔は自分が不利と判断した。
そして、足止めには十分な時間が過ぎていた事だけを確認し、拍子抜けするほどにあっさりと退いたのだ。
もちろん、氷景もそれを深追いする事無く、主人である紅の元へと急いだ。
政宗の刀が紅を貫こうとしているのを目の当たりにした時は、息が止まるかと思った。

「すまない、姫さん…」

それを防ぐのには間に合った。
けれど、彼女は全身に怪我を負い、一目見ても危険な状態だと分かる。
満身創痍と言う言葉では表す事のできない彼女の状況に、氷景は唇を噛んだ。
そして、再び地面を蹴って木の枝へと飛び乗り、そこから枝を飛んで走り出す。









ふと、近づいてくる気配を感じ取り、氷景の警戒心が強まった。
しかし、そのすぐ後に、それが見知っている気配であると気づく。
知っていて、尚且つ警戒する必要がないであろう人物。
タンッと枝を強く蹴って地面へと降り立った所で、その人もまた、氷景のすぐ前に降り立った。

「珍しい所で会うもんだな」

感心したようにそう言ったのは、同じ里出身であり、武田軍の忍…猿飛佐助。
他の武田の忍だったならば、警戒心は解かなかった。

「…全くだな」

氷景の答えを聞いてから、佐助は彼の腕に抱えられている紅を見た。
遠目に見ても、彼女が怪我を負っていると言う事は明らかだ。

「………誰にやられた?」
「…松永久秀。この辺りに軍を率いてるのは奴だ」
「あぁ、道理で…。さっき、うちの防衛線を突破してった奴がいるよ」

お前もよーく知ってる奴さ。
そう言って、佐助は軽く肩を竦め、自身の右目をトンと指さした。
その言葉を聞き、氷景は心中で安堵の息を零す。

「うちの大将がすんなり通しちゃってさ。ま、それは別にいいんだけど」

そこまで言ってから、佐助は口を噤んで近づいてきた。
すぐ前で立ち止まった彼は、紅の全身を見る。

「…結構酷いな。この状態だと、内臓もやられてる可能性がある」
「…分かってんなら邪魔すんなよ。こんな所じゃ落ち着いて手当ても出来やしねぇ」

言外に、早く帰らなければならない、と含ませる氷景。
佐助は彼の言葉に暫し沈黙した。
そして、ふと顔を上げてクイッと顎を動かす。

「来いよ。すぐ近くに旦那の本陣がある。そこなら医者も居るさ」
「…敵だぞ、俺は」
「真田の旦那にとっちゃ、紅さんは敵じゃないからな。ここで見送って何かあったら、俺が怒られそうだし」

佐助はそう言うとすぐに踵を返して走り出す。
付いて来い、と言うことなのだろう。
少し悩んでから、氷景は彼の後を追うことにした。
佐助が何かを企んで本陣に連れて行くとは思わない。
本格的に敵対した時は、彼は迷いなく忍としての任を全うするだろう。
しかし、今は伊達と武田はまだ微妙な関係にある。
政宗と幸村にいたっては、お互いを好敵手と認めて一騎討ちの機会を望んでいるほどだ。
同盟国ではなく…けれど、敵でもない関係。
この現状ならば、佐助は紅を殺そうとはしない。
その必要がないからだ。
それならば…今は、彼の提案を受け入れる方がいい。
氷景にその判断をさせるほどに、紅の状況は悪いと言う事だ。


















「―――旦那。帰ったぜ」

本陣で槍の手入れを行なっていた真田幸村。
そのすぐ傍らに佐助が降り立った。

「おぉ、佐助。戻ったか。本陣の周辺の様子はどうだった?」
「向こうの方で動いてるのは、どうやら松永の軍らしい。こっちに関しては、既に撤退を始めてるから問題はないな」

問題は…と言って、佐助はスッと身を横に動かす。
そうする事で、彼の後ろに居た人物が幸村の視界に入った。
カラン、と手に持っていた槍が地面に落ちる。

「紅殿!?」

紅を抱えている氷景よりも先に、彼女の方が目に入ったようだ。
只ならぬその様子に、幸村は驚いたように立ち上がる。

「何が…!…佐助、すぐに医者を呼べ!」
「そう言うと思って、もう呼んである」

佐助がそう言い、それにあわせたかのように、軍属の医者がその場に到着した。
彼は紅の様子を見るなり顔を顰め、囲いをされている一角に彼女を運ぶよう指示する。
そして、彼女と医者がその中へと消えていった。

「政宗殿と言い、紅殿と言い…一体何があったと言うのだ?」
「霞桜氷景と申します。主への医者の手配、感謝いたします」
「そなたの事は佐助からも聞いておる。佐助同様に腕の立つ忍だと聞いているが…何故このような事に?」
「―――伊達軍の兵を人質に取られ、筆頭の留守を任されていた紅様がその救出に向かわれました」

それだけを説明されれば、状況がどうなったのかと言う事は考えるまでもない。
幸村は表情を歪め、紅が治療されているであろうそちらへと目を向ける。
布により隠された中がどうなっているのかは見えない。
彼女は無事なのか―――その身を案じる不安ばかりが、その表情に表れていた。








どのくらいの時間が過ぎたのか。
ひら、と布地がゆれ、そこから医者が姿を見せた。

「…紅殿は…?」

誰も声を発することのないその場。
代表したように声を上げる幸村に、医者は短く息を吐き出した。

「命に別状はありません。ただ…一刻も早く、安静な場所で治療する必要があるでしょうな」
「傷は…残るのか?」

氷景がそう問いかけると、医者は悩むように口を閉ざした。

「残る…物もあるかもしれません。ですが、一番酷い袈裟懸けの傷に関しては、刃物の切れ味に感謝すべきでしょう」
「それ以外は残るのか?」
「…全身の至る所に大小さまざまな裂傷、背中の火傷。臓器も多少なり傷ついています。
この状態で、傷が残るかどうかを考えるのは愚問でしょう。一つも致命傷がなかった事を喜ぶべきです」

表情を歪めて、まるで諭すようにそういった医者に、氷景は「そうだな」と頷いて身を引いた。
もちろん、彼は身体に傷が残ると言う事が、女性としての価値を下げると考えたわけではない。
見えるところに残った傷は、守れなかったと言う事実を突きつけるものになる。
そして、政宗が心を痛めれば、それに対して紅が気を使わねばならなくなってしまう。
彼は政宗と紅の心を考え、そのことを尋ねたのだ。
医者と幸村が話を始めるのを聞きながら、紅の元へと歩いていく。
区切られたその場所で、横たえられている彼女の姿。
女性用に作られた防具などは全て外され、身体に負荷のかからない薄手の着物を着せられている。
その襟元や袖口から覗く腕や首筋には、まるで肌を隠すかのように包帯が巻かれていた。
顔にもいくつかの裂傷は見られるが、どれも小さなもので、消毒だけで済んでいる様だ。

「…すまない」

閉ざした目を開かない紅を見下ろし、氷景はそう呟いた。

08.04.15