廻れ、

- 廻 れ 、 廻 れ 。  時 空 よ 、 廻 れ -

-- 番外編:松永久秀05 --

目に入ってきた光景の中でも、一際存在感を放っていたそれ。
見間違うはずもない。
聞き間違うはずもない。
崖っぷちで伏すようにして地面に拳を打ちつけているのは、最愛の妻だ。
理解すると同時に駆け出しそうになったのを、ぎりぎりの所で小十郎にとめられる。
そこで、漸く人質たちの存在が見えた。

「やぁ…独眼竜と、その右目。よく来たな、と言いたいところだが…機嫌はあまり良くないようだな」

その声に反応したのか、地面に伏していた紅がゆっくりと動く。
緩慢な動きで扉の方を振り向いた彼女は、ゆるく頭を振った。

「政宗様…っ」

そちらに向かおうとした彼女は、上半身を起こしたところでバランスを崩した。
焦ったように政宗と小十郎、そして人質となっている伊達兵が彼女を呼ぶ。
地面に逆戻りとなった彼女は、浅い呼吸を繰り返した。
ジワリと彼女の下から赤い血が溢れ出す。

「テメェ…紅に何をした!?」
「卿が何を怒っているのかわからないな。向かってきた敵を斬る―――自然なことだろう?」

松永は薄く笑みを浮かべ、そう言って肩を竦めた。
痛みが完全に戻ってきているのか、紅はその場から立ち上がることすら出来ない。
ただただ、肩で息をして呼吸を整えようとするのみ。
松永はそんな彼女の前に立ち、その胸倉を掴みあげる。

「…はぁっ…はぁっ…」
「折角手当てをしてやった傷口が開いたか…無理をしなければいいものを」

痛みに表情を顰めつつ、紅は松永を睨み付ける。
その目は涙に濡れていた。
彼は紅の目に口角を持ち上げると、そのまま彼女を政宗たちの方へと放り投げる。
突然の行動に目を見開くも、即座に動いた政宗が彼女を受け止めた。

「紅っ!!」

腕の中でぐたりとして動かない彼女を、政宗が何度も呼ぶ。
肩を中心に赤いシミが広がっていて、そこに傷口があることを教えていた。
呼びかけに答えるように、紅が薄く瞼を開く。

「…ごめ…なさい…っ」
「…紅?」

彼の姿を映すなり、紅はぼろぼろと涙を零す。
そして、途切れ途切れに「ごめんなさい」と告げた。

「助け、られなかっ…!ごめんなさい…っ」

その言葉に、政宗は先ほどまで彼女が伏せていた場所を見た。
血溜まりの先に、不自然な空間がある。
配置の関係からして、そこにも兵の一人が結び付けられた柱が存在したのだろう。
それがないということは―――そう言う事だ。
政宗は紅の言葉の意味を理解し、ぎゅっとその身体を抱きしめる。

「小十郎」
「は!ここは小十郎にお任せを。あなたの手を薄汚い血で汚す必要はない…!」

いくらか低くなった政宗の声に、小十郎はその全てを悟っていた。
すっと刀を抜きつつ、松永を睨み付ける。

「奴に隙を与えるな…あの腐った魂ごと叩き斬ってやれ!」

紅は薄い意識の中で、その声を聞いていた。
お願いだから、すぐに退いて欲しい。
この男は、政宗の刀を得るだけで満足したりはしない。
一刻も早く政宗をこの男から遠ざけなければならない。
わかっているのに、身体が動いてくれないのだ。
肩の傷が一番酷いとは言え、他に怪我がないわけではない。
出血の酷い怪我は、脇腹と二の腕にもある。
打撲に至っては、ほぼ全身と言っても間違いはないのだ。
恐らく、骨にヒビの一つも入っているだろう。
呼吸をする度に胸の辺りが軋むように感じるのはその所為だ。

「…っ、…政、宗…様…」

その声は蚊が鳴くほどに小さく、真剣に勝負の行く末を見守る政宗の耳には届かない。
紅は新たな涙を一粒零し、小十郎達の方を見た。
彼の方が押しているように見えるのは、松永が遊んでいる所為だろう。
本気を出していない事は、その口元に浮かぶ笑みが物語っている。
嘲るような笑みを浮かべ、軽々と小十郎の刀を受け流す松永。

―――あの男は強い。

そう認識せざるを得ない状況だ。
身体を支えてくれている政宗の手に力が篭ったのを感じた。
紅は自分が気配を辿る事のできるギリギリの所までそれを伸ばす。
その中に氷景はいない。
彼さえここにいれば、打開策が望めたのに―――そう思うのと同時に、彼は無事なのだろうかと考える。
優秀な忍…生憎忍に詳しくない紅には、それが誰の事なのかはわからなかった。
居て欲しい時にはいつの間にか傍に居る―――そんな氷景が居ないと言う事実。
それが、紅に小さな不安を与えていた。










小十郎の一撃を松永がひらりとかわす。
同時に、松永は人質の方へと移動し、命綱のすぐ傍へと落ち着く。

「どれ…」

彼の持つ刃が綱に近づく。
事も無げにあっさりとそれを斬ろうとした松永に、小十郎が息を呑んだ。

「やめろ!!」
「待て!」

とめたのは小十郎ではない。
紅は頭上から聞こえた制止の声に表情を歪めた。
ピタリと止まる松永の剣。
それを見ると、政宗は立てた膝に紅の背中を凭れさせ、両方の腰に挿した刀を結わえる紐を解く。
その行動の意味する所を悟り、紅は「駄目だ」と止めようとした。
けれど、一度自分を見下ろした彼の目によりその言葉を飲み込む事になる。

「くれてやる…そいつらを解放しろ」

政宗の落ち着いた声がその場に響いた。
驚いたのは紅だけではなかった筈。

「筆頭!?」
「そんな…!」
「駄目です!!」

囚われている兵からそんな声が上がる。
自分たちの所為で、政宗の大切な刀を失わせるわけには行かない。
兵の一人たりとも見捨てない人だと分かっていたけれど、それでも。
いざその光景を目にしてしまえば、止めずにはいられなかった。
その所為で自分たちの命が散ろうとも…。


そんな中、クククッと押さえ込んだような笑い声と、小さな拍手がその場に聞こえた。

「いや、見事見事!卿はまったくもって清らかな男だ!」

皮肉を込めた松永の笑い声が、遠くに聞こえる。
紅はその姿を視界に捉えつつ、別の方へと意識を引っ張られるのを感じた。
感じている気配が、ここに居る人数よりも多い。
そしてそれは、すぐ近くにあった。

「実に救いがたい―――」

スッと松永の腕が持ち上げられる。

「いやはや…まったくだ!」

頭で考えたわけではなかった。
ただ、本能的に身体が動く。
動かないと思っていた身体がその限界を超えた瞬間でもあった。
政宗の胸倉を掴み、自分との位置を変えるように反転させる。
その行動が終わるや否や、ドンッと腹に響く爆発音と共に、身体が吹き飛ばされた。

「政宗様―――ッ!!」

木の葉のように宙を舞うその途中、紅は視界の端で小十郎が飛び出したのを確認する。
一瞬、彼と視線が絡んだ。
その瞬間に、紅は小さく笑みを浮かべ、近くにあった政宗の身体を崖の方へと押し出す。
既に意識を失っているらしい彼を小十郎が捕まえる様子が、スローモーションのように見えた。
やがて、二人の姿は崖の向こうへと吸い込まれて見えなくなる。
それと同時に、ギリギリのところで地面に叩きつけられる紅。
全身が渾身の悲鳴を上げた。

08.04.03